書評
『自転車泥棒』(文藝春秋)
記憶は物に宿る。それは具体的な形象と結びつくことで、継承される物語となる。例えば――。僕の部屋には一本のギターが眠っています。父さんから譲ってもらった古びたアコースティックギター。父さんは若い頃、フォークソングが好きでした。アリス、松山千春、かぐや姫。歌うのが得意だった父さんから、本人が青年時代、地域ののど自慢大会に出場して優勝したという話を僕はうんざりするほど聞かされました。その頃の思い出が、あのギターには詰まっているわけです。得意げに語る父さんのギターの音色は、お世辞にも美しいものではなかったけれど。
誰かから物を受け継ぐということは、記憶を、物語を手渡されることでもある。そして、その継承によって、過去は現在に蘇り、未来を作る――。台湾を代表する作家、呉明益の『自転車泥棒』はそのことの切実な意味を描き上げる小説です。
語り手の〈ぼく〉の父親は、ある日、自転車とともに失踪した。父親の自転車を探しているうちに〈ぼく〉は、古い自転車を蒐集する趣味を持つようになる。とはいえ〈ぼく〉は〈車両そのもの〉ではなく〈自転車が持つ物語を大事に思ってしまう〉タイプの蒐集家である。小説は、そんな〈ぼく〉とコレクター、あるいは持ち主との巡り逢いを描きながら、自転車に付帯する彼女・彼らの記憶の抽斗を次々と開放するように進みます。
父親の自転車はこれまでに三度、盗まれたことがあった。5人の娘を持つ父親が末の娘を里子に出そうとすることに気づいた母親が、自転車で駆けて止めに行ったとき。放埒な性格の兄が奇跡的に高校入試に合格したことを知り、嬉しさのあまり自転車を合格発表の場に忘れて父親が帰宅した、あの日。ある性暴力によって高熱が出て、うなされる〈ぼく〉を乗せてかかりつけの医者まで走り診てもらった、そのあと。〈ぼく〉にとっての父親の自転車とは、いまなお、記憶の映写機を回せばそこに家族の情愛が柔らかな温かみを伴って映し出される、そんな忘れがたい思い出の形象そのものなのです。
後日、取り戻すことができた最後の自転車は、〈幸福〉というメーカーの製品でした。それを追い求める〈ぼく〉は、この物語を鮮やかに彩るいくつかの邂逅を経ながら、抽斗のなかのそれぞれの記憶に手を伸ばしていく。古道具屋のアブー。自転車蒐集家のナツ。〈ぼく〉の父親の自転車を保管していた喫茶店をかつて経営していたアッバス。アッバスの元恋人の友人でその自転車を譲り受けたサビナ。彼女に自転車を託した元軍人のムー隊長。ムー隊長の恋人の静子。
追憶にたゆたう彼女・彼らの語りは、戦争の情景を、かつて存在した時間そのものを描きだす。自転車で東南アジアを行軍した銀輪部隊や、軍とともに密林から逃げ延びたゾウたちの物語が紡がれるうちに、彼女・彼らの記憶は交差し、絡まり合い、一つの見事なまでに美しい織物を編んでいく。記憶の物語の奇跡のような紋様が浮かび上がるラストは、いま・ここを織りなす時間の複層性のなかに読者を捕えてやみません。
この作品の文学的な深みは、父親の失踪を知った〈ぼく〉が、父親じたいを探すのではなく、自転車を求めるところにあるのだと僕は思います。家父長制の根強い社会にあって、絶対的な主人を見つけ出すのではない。自転車を探すということは、記憶、すなわち、現在を築き上げる時間の情景を探し求めること。〈ぼく〉や家族、あるいは、作中で出逢う人々の個人的な記憶が互いに結びつくことで、それが社会的な記憶として呼び覚まされる。台湾の社会の下層に眠る、未来を照らすために大切な記憶。その継承の一つの豊かな在り方を、呉明益『自転車泥棒』という読み継がれるべき傑作はいま、僕たちに示してくれているのです。
誰かから物を受け継ぐということは、記憶を、物語を手渡されることでもある。そして、その継承によって、過去は現在に蘇り、未来を作る――。台湾を代表する作家、呉明益の『自転車泥棒』はそのことの切実な意味を描き上げる小説です。
語り手の〈ぼく〉の父親は、ある日、自転車とともに失踪した。父親の自転車を探しているうちに〈ぼく〉は、古い自転車を蒐集する趣味を持つようになる。とはいえ〈ぼく〉は〈車両そのもの〉ではなく〈自転車が持つ物語を大事に思ってしまう〉タイプの蒐集家である。小説は、そんな〈ぼく〉とコレクター、あるいは持ち主との巡り逢いを描きながら、自転車に付帯する彼女・彼らの記憶の抽斗を次々と開放するように進みます。
父親の自転車はこれまでに三度、盗まれたことがあった。5人の娘を持つ父親が末の娘を里子に出そうとすることに気づいた母親が、自転車で駆けて止めに行ったとき。放埒な性格の兄が奇跡的に高校入試に合格したことを知り、嬉しさのあまり自転車を合格発表の場に忘れて父親が帰宅した、あの日。ある性暴力によって高熱が出て、うなされる〈ぼく〉を乗せてかかりつけの医者まで走り診てもらった、そのあと。〈ぼく〉にとっての父親の自転車とは、いまなお、記憶の映写機を回せばそこに家族の情愛が柔らかな温かみを伴って映し出される、そんな忘れがたい思い出の形象そのものなのです。
後日、取り戻すことができた最後の自転車は、〈幸福〉というメーカーの製品でした。それを追い求める〈ぼく〉は、この物語を鮮やかに彩るいくつかの邂逅を経ながら、抽斗のなかのそれぞれの記憶に手を伸ばしていく。古道具屋のアブー。自転車蒐集家のナツ。〈ぼく〉の父親の自転車を保管していた喫茶店をかつて経営していたアッバス。アッバスの元恋人の友人でその自転車を譲り受けたサビナ。彼女に自転車を託した元軍人のムー隊長。ムー隊長の恋人の静子。
追憶にたゆたう彼女・彼らの語りは、戦争の情景を、かつて存在した時間そのものを描きだす。自転車で東南アジアを行軍した銀輪部隊や、軍とともに密林から逃げ延びたゾウたちの物語が紡がれるうちに、彼女・彼らの記憶は交差し、絡まり合い、一つの見事なまでに美しい織物を編んでいく。記憶の物語の奇跡のような紋様が浮かび上がるラストは、いま・ここを織りなす時間の複層性のなかに読者を捕えてやみません。
この作品の文学的な深みは、父親の失踪を知った〈ぼく〉が、父親じたいを探すのではなく、自転車を求めるところにあるのだと僕は思います。家父長制の根強い社会にあって、絶対的な主人を見つけ出すのではない。自転車を探すということは、記憶、すなわち、現在を築き上げる時間の情景を探し求めること。〈ぼく〉や家族、あるいは、作中で出逢う人々の個人的な記憶が互いに結びつくことで、それが社会的な記憶として呼び覚まされる。台湾の社会の下層に眠る、未来を照らすために大切な記憶。その継承の一つの豊かな在り方を、呉明益『自転車泥棒』という読み継がれるべき傑作はいま、僕たちに示してくれているのです。
初出メディア

英語教育 2023年11月号
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