書評

燃える家(講談社)

  • 2017/08/11
燃える家 / 田中 慎弥
燃える家
  • 著者:田中 慎弥
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(594ページ)
  • 発売日:2013-10-25
  • ISBN:4062186012

※書店によっては、在庫の無い場合や取り扱いの無い場合があります。あらかじめご了承ください。
※詳しい購入方法は、各ネット書店のサイトにてご確認ください。

読者は山根忍と出会い、彼女を忘れない。

田中慎弥氏は、私とは大いに資質の異なる作家だが、その作家となった背景には、幾つか私と似通ったところがある。

まず男性で年齢が近いこと。育ったのが、下関と北九州という、関門海峡を挟んで向かい合わせの土地――しかも、かなり独特な――であったこと。そんな場所で本を読み、三島や谷崎、川端など、十代に大きな影響を受けた小説家が何人か重なっていること。そして、幼時に父親を亡くしていること。……

恐らくそれらのために、田中氏の作品を読んでいると、時々私は、これは人ごとではないと痛切に感じる主題と出会う。本作《燃える家》もそうだった。

私は、田中氏の9・11アメリカ同時多発テロの気に仕方に共感した。それは結局のところ、メディア越しの遠い崩壊であるにも拘らず、あたかも砂を落とし続ける砂時計のように、登場人物に内的に体験され続けている。

同時に、地方対中央という近代文学が延々と書き継いできたテーマに於いても、私はここにある「地方が東京に勝てる点は、何一つ、ない」という停滞感を理解する。

とは言え、それらの主題に対する田中氏のアプローチは、やはり私とは非常に異なっている。田中作品には、しばしば釣りが登場するが、主題は、海の底からゆっくりと、反復的にリールが獲物を引き上げてゆくように姿を現す。文体には、その手応えが漲った独特のこくがある。千枚にも及ぶこの長篇小説では、一つの作品内で、何度となく糸が垂らされ、幽霊、暴力、カトリシズム、天皇制、ニヒリズム、愛と、めずらしい小物からずっしりとした重みを備えた大物に至るまで次々に引き上げられてゆく。蟹や鳩、炎といった各登場人物に固有の象徴的幻想は、次第に相互に乗り入れられて、これらの豊富な――些か豊富すぎる――主題に一体感を与えてゆく。

物語は、赤間関市を舞台に、主人公の滝本徹、その友人・相沢良男という二人の高校生と、山根忍という一人の女性教師、更にその家族を中心に展開される。滝本は、東京の有名政治家の隠し子であり、社会的には「非存在者」としての存在を強いられている。相沢もまた、父に跡取りとしての能力を見限られており、しかも若い性的不能者である。滝本が、過去に拘束されて、自身の存在を掴みかねているのに対し、相沢はむしろ、将来の不毛さの予感から自らの無力感に苦しんでいる。そうした現実を打破するために、相沢は一種のニヒリズムによって滝本を感化する。

ニヒリズムと言っても、彼の場合、ドストエフスキーのイワンのように、際限の無い知的な懐疑によって世界の意味喪失を経験するのではなく、むしろ、自らが身体的に宿命づけられている無力さ=「無意味」さに見合うように、世界そのものの積極的な「無意味」化を図り、それによって逆説的に「力」の恢復を計ろうとするものである。そのために計画されたのが、不能の彼にとってはまさしく「無意味」であるが故に有意味な山根忍のレイプだった。

この小説の白眉は、何と言ってもこの山根忍という女性の存在感である。

中学時代にキリスト教の洗礼を受けた彼女の信仰は、「何もしない神と何も望まない自分」という、一見、それこそ「無意味」な認識に基づいている。入信の動機もわからず、聖書にはほとんど無関心で、切迫感に駆られて福音の言葉に救いを求めるわけでもない。

しかし、自らが「半端」と語る彼女のこの、にも拘らず求められた信仰は、十分に自覚的で具体的な深い信仰よりも、遥かに広大な救済の裾野を読者に望ませる。

彼女が、炎上する山口サビエル記念聖堂を見つめながら、不信仰の極みに於いてキリストを垣間見る場面、暴行を受け、世界への呪詛を爆発させた後に、新築の聖堂の側に倒れて神に「見られている」という実感を得る場面は圧巻である。「顔を洗って出直す」という慣用句があるが、私は、この二箇所を読んだあと、何となく洗面所に顔を洗いに行って、しばらく本を閉じて呆然としていた。

田中文学に於いては、男性の女性に対する暴力性は、一種のオブセッションである。《共喰い》でも取り上げられた性交痛や快感の欠如への加害者的な不安は、本作でも引き継がれており、山根忍に対する暴行の場面に於いてあからさまな形を取る。

共喰い (集英社文庫) / 田中 慎弥
共喰い (集英社文庫)
  • 著者:田中 慎弥
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(208ページ)
  • 発売日:2013-01-18
  • ISBN:4087450236

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この時重要なのは、滝本にせよ相沢にせよ、いずれもその暴力の乱用者としての父親を呪いつつ、それを男性的なるものの典型として、やがては受け容れねばならないと感じている点である。この同化に対する嫌悪が齎す停滞感こそは、《蛹》の主題だったが、本作では、相沢に宗教論議を吹っ掛けられた山根の肉体に対する滝本の興奮など、エロティシズムに更に一段の深まりがある。

切れた鎖 (新潮文庫) / 田中 慎弥
切れた鎖 (新潮文庫)
  • 著者:田中 慎弥
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(164ページ)
  • 発売日:2010-08-28
  • ISBN:4101334811

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全十章よりなる本作に私は非常に感銘を受けたが、終盤にかけては三点、気になった点がある。私はこれについて作者とも直接喋った。 一つは父との関係である。本作では、親子という、田中氏が一貫して追求する主題が十全に描かれているが、《犬と鴉》同様、非常に多くの人間を巻き込んだ、かなり大がかりな事件が描かれながらも、クライマックスには、父との対決という、派手ではあるが極めて私的な場面が置かれている。物語としてはそれで構わないが、しかしプロットは、むしろ逆であるべきではないだろうか。つまり、父との対決が家庭を超えて社会的な広がりを持ってゆくという……。

犬と鴉 (講談社文庫) / 田中 慎弥
犬と鴉 (講談社文庫)
  • 著者:田中 慎弥
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(208ページ)
  • 発売日:2013-01-16
  • ISBN:4062774224

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もう一つは、天皇問題の導入についてである。以前に、短篇《血脈》を読んだ時にも感じたが、同世代人として、私は田中氏の天皇制への拘りが今ひとつわからない(*)。本作では勿論、壇ノ浦の戦いに於ける安徳天皇の入水が導因となっているが、同じく飛躍的ではあってもキリスト教についての思索が迫真の説得力を持っていたのに対して、天皇制の件は物語上の必然性を感じ取り難い。滝本が上京時に新幹線から眺めるあの富士山と天皇を等価な象徴として捉えられるのだろうか。

更にもう一つは、愛すべき山根忍の最後の描き方である。私はここに、決してキレイごとでは終わらせない田中氏の作家としての誠実を見るが、常日頃より読者から「後味の良い終わり方」を期待されて、しばしば閉口している私は、その気持ちが今回分かる気がした。わがままな読者として、私は田中氏に彼女の未来の可能性までカヴァーしてほしかったが、それは、慎むべきかもしれない。

しかし、いずれにせよ、本書は類い稀な力作である。山根忍の受難は、読者の記憶に長く残り続けることだろう。

*本稿を書いて一年も経たぬ内に、私は極端な反動に堕した政治的状況下で、天皇の存在を思いがけず強く感じたことが何度かあった。それは、必ずしも否定的な意味ではなかったが、いずれにせよ、田中氏は本作執筆時に既に何かしら敏感に察するところがあったのだった。

【この書評が収録されている書籍】
「生命力」の行方――変わりゆく世界と分人主義 / 平野 啓一郎
「生命力」の行方――変わりゆく世界と分人主義
  • 著者:平野 啓一郎
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(402ページ)
  • 発売日:2014-09-23
  • ISBN:406219063X

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初出メディア

新潮

新潮 2013年12月

燃える家 / 田中 慎弥
燃える家
  • 著者:田中 慎弥
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(594ページ)
  • 発売日:2013-10-25
  • ISBN:4062186012

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