米原 万里

米原 万里MARI YONEHARA

公式サイト: http://www.yoneharamari.jp/

1950年 4月29日、東京・聖路加病院にて、米原昶
(いたる)、美智子の長女として誕生。当時、一家は大田区大岡山に間借りしていた。
1953年 1月、妹ユリ誕生。
1954年 母・美智子が営んでいたタバコ屋の立ち退き料を元手に東京・馬込に家を建てる。
1957年 4月、大田区立馬込第三小学校に入学。学芸会では1人で40分間踊りまくる。
1959年 11月、父がチェコスロバキアのプラハにあった国際共産主義運動の理論誌の編集局に派遣されることになり、一家でプラハに移住する。第三学年中退。
1960年 1月、在チェコスロバキア・8年制ソビエト大使館付属学校第二学年に編入。
1964年 11月、第七学年で中退。両親とともに帰国。
覚えたロシア語を忘れないため、両親はロシア語の本を取り扱う書店や図書館に娘たちを連れて行く。
1965年 1月、大田区立貝塚中学校第二学年に編入。
1966年 3月、同校卒業。
4月、私立明星学園高等部入学(演劇部に所属)。
1969年 3月、同校卒業。
4月、榊原舞踊学園民族舞踊科入学。
1971年 3月、同校中退。
4月、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科入学。
学生運動に取り組むかたわら演劇や民族舞踊にも熱中する。
1974年 北海道大学で学んでいたユリへの葉書では建築家になりたいと書いている。
1975年 3月、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。卒論は「詩人ネクラソフについて」。
4月、汐文社(出版社)入社。
1976年 3月、同社退社。
4月、東京大学大学院人文科学研究科露語露文学専攻修士課程入学。
1978年 3月、同修士課程修了。
その後、文化学院、日ソ学院(現東京ロシア語学院)などでロシア語講師を務めるかたわら、ロシア語の通訳・翻訳の仕事を始める。
1980年 ロシア語通訳協会を仲間と設立し、初代事務局長に就任。
1981年 翻訳書、カトー・ロンブ著『わたしの外国語学習法』(創樹社・2000年ちくま学芸文庫)刊行。
1982年 父・昶亡くなる。筋萎縮性脊髄側索硬化症、享年73。
1984〜85年 TBSテレビ『シベリア大紀行』に通訳として参加。200年前にロシアを訪れた日本人、大黒屋光太夫の足跡を追う番組取材に通訳として同行のため二か月にわたって真冬のシベリアを横断。マイナス59℃を体験。
この年(1985年)、スイスで米ソ会談が開かれ、ソ連、ゴルバチョフ書記長の会見は世界中に中継された。日本のテレビ局で同時通訳を務めた万里は、これでもう「あとには引けない」と感じ、通訳としてやっていくことを心に決める。ゴルバチョフ書記長が国内外に対する改革路線"ペレストロイカ"を打ち出したことで通訳の仕事が急激に増え、「過労死するほど働いた」という。
1986年 初めての著作『マイナス50℃の世界』(現代書館・絶版)刊行。
1989〜90年 TBS宇宙プロジェクトで通訳として活躍。
1990年 ロシアのエリツィン来日時に随行通訳を務める。
1992年 テレビの同時通訳で報道の速報性に貢献したとして、日本女性放送者懇談会SJ賞を受賞。
1995年 通訳について論じた『不実な美女か貞淑な醜女か』(1994年刊行)で第四六回読売文学賞随筆・紀行賞受賞。ロシア語通訳協会会長を務める(〜1997年)
1996年 2月、プラハ・ソビエト学校時代の級友たちの消息を追った『世界・わが心の旅-4つの国の同級生』(NHK衛星第二)が放送される。
1997年 『魔女の1ダース』(1996年刊行)第13回講談社エッセイ賞受賞。以後旺盛な執筆活動を始める。4月から翌年3月までNHK教育テレビ『ロシア語会話』の講師を務める。
2000年 12月、東京都内から鎌倉に転居。
2001年 こまつ座『父と暮せば』モスクワ公演の字幕のため全編ロシア語に翻訳。
2002年 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年刊行)で第33回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。
2003年 母・美智子亡くなる。誤嚥性肺炎、享年80。時を同じくして万里に癌が見つかる。初の長編小説『オリガ・モリソヴナの反語法』(2002年刊行)で第13回Bunkamura ドゥマゴ賞受賞。解散の危機をむかえたロシア語通訳協会をたてなおすため、再度ロシア語通訳協会の会長を務める
(〜06年)
2006年 5月25日、鎌倉の自宅で死去。卵巣癌、享年56。
戒名は「浄慧院露香妙薫大姉」。


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