読書日記

米原万里「私の読書日記」週刊文春2002年2月28日号|打ちのめされるようなすごい小説『夜の記憶』『心の砕ける音』『笹まくら』

  • 2017/07/05

週刊文春「私の読書日記」

×月×日

一年あまり前、友人で小説家のHから突然メールが届いた。

トマス・H・クック著『夜の記憶』(村松潔訳 文春文庫)をお読みになりましたか?もしお読みになっていたら、ぜひメールをください。なぜ、と思われるでしょうが、理由は長くなるので、まず、読んだか否かについて先にお伺いします」「エッ、鉄道時刻表のトマス・クックじゃなくて?」という私の返答に呆れたのだろう、Hは間髪入れず決して長くはないコメントをよこした。「アゴタ・クリストフの『悪童日記』以来、これではもう私が書く意味はない、と思ったほどすごい本でした」

夜の記憶  / トマス・H. クック
夜の記憶
  • 著者:トマス・H. クック
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(435ページ)
  • ISBN:4167218658
内容紹介:
ミステリー作家ポールは悲劇の人だった。少年の頃、事故で両親をなくし、その直後、目の前で姉を惨殺されたのだ。長じて彼は「恐怖」の描写を生業としたが、ある日、50年前の少女殺害事件の謎ときを依頼される。それを機に"身の毛もよだつ"シーンが、ポールを執拗に苛みはじめた-人間のもっとも暗い部分が美しく描かれる。

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いやが上にもそそられるではないか。それにHが断筆したら人生の楽しみが減るので、早速近くの本屋に注文したものの、在庫切れで入荷時未定とのこと。インターネット書店も同様だったが、ここで初めてクックが最近、日本でも高い人気を誇るアメリカのミステリー作家であることを知る。Hの作風はどちらかというと純文学系なので、さらに興味がつのる。

ところが、ようやく待望の一冊が届いた頃は、ネコヒトイヌ総勢八頭引き連れての引っ越しの真最中で、『夜の記憶』は忘却の彼方(かなた)へ追いやられてしまったのだった。それが深夜、書庫の整理をしていて出てきた。Hのメールを思い出して軽い気持ちで頁を捲(めく)るや、恐怖で身体が強(こわ)ばり、読み終えずに寝たら悪夢にうなされそうな気がして書庫の床に座ったまま最終頁まで突き進んだ。

幼い頃事故で両親を失った主人公は、たった一人の姉と寄り添って生きてきた。その姉を、ある夜押し入った殺人鬼に目の前で惨殺される。長じてミステリー作家となった彼は、辛い記憶を心の奥底に封印して、ニューヨークの片隅に世捨て人のように身をひそめ、冷血な殺人鬼とその卑屈な手下、彼らを追う刑事の物語を執拗(しつよう)に書き続けている。

シリーズ化されたその小説のファンだと名乗る富豪の女性から、ある日奇妙な依頼が舞い込む。五〇年前に自宅の敷地内で起きた美少女怪死事件について謎を解き明かしてくれ。ただし、必ずしも真相を突き止めなくてもいい。死期の近い少女の母を心安らかにしてあげるのが目的なので虚構でもかまわない、納得のいく物語を構築して欲しいというのだ。

事件の現場となった屋敷を訪れた主人公は、関係者たちを訪ね歩き、証言を聞き出し、丹念に捜査資料を漁(あさ)る。疑わしい人物が登場するたびに彼の脳裏には、犯人像とその動機、事件の一部始終が物語となって次から次へと湧いてくる。その虚構の中に、自身の連作小説の登場人物たちがまぎれ込んでくる。怪死した少女の年齢と殺された姉の年齢が近いせいか、姉がサディストに一晩かけて弄(もてあそ)ばれながら殺されていったシーンがことあるごとに甦(よみがえ)る。これが怖い。今でも読まなければよかったと思うほど怖い。

こうして過去と現在、現実と虚構のあいだを絶え間なく行き来しながら、少女怪死事件の謎①と姉の惨殺にまつわる謎②が絡まり合いながらも徐々に解きほぐされていく。謎①については、唐突にナチスの絶滅収容所における人体実験という要因が用意されていて、面食らう。謎①の要因が謎②の要因の絶妙な比喩になっているのだが、もう少し掘り下げてくれないとやはり取って付けたような印象が否めない。それが玉にキズ。謎②の方は、幾重もの伏線が張ってあるおかげで、解明された瞬間、主人公と読者の心にのしかかる重石(おもし)がスパッと取り外される解放感がある。

だが後味は、重く切ない。普通のミステリーのように、理不尽の裏に潜む合理的な真相を最後に突きつけることで読者を爽快な気分にして現実世界に引き戻してくれたりはしない。姉を快楽のためだけに惨殺した殺人鬼という最大の理不尽は野放しのままだからだ。しかし、だからこそ主人公の悲しみと苦悩が真実味を持って迫ってくる。謎解きそのものよりも主人公の心の闇を通して罪深い人間への愛おしさをかき立てる方に著者の狙いがあるような気がする。

×月×日

重層的な構成といい、緻密(ちみつ)な細部といい、たしかにHが感心するだけのことはある。

しかし「もう書く意味はない」ほどの傑作かというと、いや同じように現在と過去を絶え間なく往復する構造ながら、もっと打ちのめされるようなすごい小説を、しかも日本人作家のそれを読んだことがあるような……それが何だったのか思い出せないもどかしさを抱えたまま、同じトマス・H・クックの最新作『心の砕ける音』(村松潔訳 文春文庫)を手に取る。一九三〇年代アメリカ東部の港町で青年が刺殺される。地方検察官でもある青年の兄の一人称で物語は叙述される。犯人は誰でなぜ弟は殺されたのか、真相を究明する過程で、兄は弟との幼年時代からの来し方を何度も何度も振り返る。

心の砕ける音  / トマス・H. クック
心の砕ける音
  • 著者:トマス・H. クック
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(398ページ)
  • ISBN:4167527847

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内省的で緻密な思考をするリアリストの自分とは対照的に、ロマンチストの弟は直感と情熱の赴くままに生きていた。ある日若く美しい女がふと町にやってくる。地方新聞社を経営する弟はたちまち女に魅了され、彼女を雇った。過去を一切語ろうとせず、世俗的な欲望を拒むように生きる不思議な女。弟が求婚するつもりでいたその女は弟の死と時を同じくして町から姿を消した。兄は女が町にやってきたその日から事件当日までの足取りをたどり始め、女の過去へ遡(さかのぼ)ってニューヨークやカリフォルニアに足をのばす。

ここでも主人公は過去の記憶に縛られ、過去と現在を行き来する度に、薄皮を剥がすように登場人物たちの人生と、心の深淵に迫っていく。謎解きそのものよりも、登場人物たちの柔らかな内面の襞(ひだ)を丁寧に細やかに描き出すことの方に重きが置かれていると言い切ってもいい。核心に近付くほどに謎は深まる。ヒーローも極悪人も背筋が凍る恐怖シーンもここにはない。つまらない欠点や弱みだらけの愛すべき人々の誰もが、語り手の兄をも含めて犯人になる可能性を秘めている。

物語が佳境にさしかかったところで、アッと叫びそうになった。例の日本人作家とその作品を思い出したのだ。

(次ページに続く)

初出メディア

週刊文春

週刊文春 2002年2月28日

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