書評
『マディソン郡の橋』(文藝春秋)
『マデイソン郡の橋』を読んだっていいじゃないか
いつも本を買っている池袋西武のリブロのレジに持っていった本の中に『マディソン郡の橋』(ロバート・ジェームズ・ウォラー著、村松潔訳、文藝春秋)があったので、「ええっ?高橋さん、どうしてこれ読むんですか」と聞かれてしまった。
どうしたもこうしたも、わたしが『マディソン郡の橋』を読んじゃいけないという法律でもあるんですかいな、とはいわないで、
「読んでないと、話題についていけないからだよお」と答えたのだった。
別に、わたしはベストセラーを毛嫌いしているわけではない。結構なことだと思う。どんどんベストセラーが出て、そのことによって出版社が潤えば、わたしのようにその業界の片隅に生息させていただいている作家だって間接的に助かるのだ。でも、残念ながら、他に読みたい本がたくさんあるので、ベストセラーにまで手がまわらないことが多い。そのためここしばらくは、「高橋さーん、『マディソン郡』どうでした?」とたずねられては、
「悪いねえ、読んでないの」と答えるということがあまりにも頻繁に繰り返され、いくらなんでも他の答えもいってみたいものだと今回の読書に至ったのだった。確か、前回読んだベストセラーは『清貧の思想』で、あん時は腹が立ったぞ。なにを書いてもいいが、読者をなめちゃいけない。そんな最近の経験があるので、『マディソン郡』にも正直こわごわ近づくしまつだった。まず、オビをチェック。
「アメリカでは400万部を超えました。日本でも100万人が読んで泣いています。
それはこの本があなた自身の物語だからです」
おっと。「100万人が泣いています」というのも気にかかる。まさか『一杯のかけそば』じゃないだろうな、と思いつつ、頁をめくりはじめたのだった。
さて、この一行あきの間に、『マディソン郡の橋』はわたしによって読まれてしまったのである。判定を下す前に、とりあえずこの本は、『清貧の思想』や『一杯のかけそば』のような拒否反応だけは引き起こさなかったことは報告しておきたい。しかし、この本で泣けるというのは解せん。五十代の「最後のカウボーイ」のようなカメラマンと、夢とともにアメリカの果ての田舎で朽ち果てようとしている四十代の女の、運命的な出会いと燃え上がる恋……いいと思うよ。思うけど、こういう設定(というほど似てないけど)なら、クーンツの『ウォッチャーズ』のカップルの方がずっといい! あそこに出てる作られた生物「アウトサイダー」の運命の方がずっと可哀そうだぞ! はっきりいって、わたしは『ウォッチャーズ』は泣いたからな。
まあ、それはいいとしよう。何で泣こうと人の勝手だものね。しかし、この「純愛」には正直いって辟易しました。この主人公のカメラマンのあまりにひどいナルシシズムにあきれたこともあるけど、ほんとうの理由は違う。実は『マディソン郡』を読みはじめたら、ちょうど内田春菊さんから新作の『ナカユビ』(ぶんか社)と『24000回の肘鉄』(マガジンハウス)が送られてきたので、同時に読んでしまったためなのだ。
恋愛小説と内田春菊のマンガを同時に読んではいけない! 絶対に! ほんと、内田春菊を前にしたら『マディソン郡の橋』の幻影なんか粉みじんなんだもの。
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