書評

『果報者ササル――ある田舎医者の物語(みすず書房)』(みすず書房)

  • 2017/07/25
果報者ササル――ある田舎医者の物語 / ジョン・バージャー,ジャン・モア(写真)
果報者ササル――ある田舎医者の物語
  • 著者:ジョン・バージャー,ジャン・モア(写真)
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(216ページ)
  • 発売日:2016-11-11
  • ISBN:4622085526

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もの静かな、深く鋭い問いかけ

ジョン・バージャーはブッカー賞作家として知られているが、若いころはエッセイや評論を書いていた。ひところイギリス・グロースターシャーの田舎に住んでいて、その地の医者と知り合った。よほど強い印象を受けたのだろう。三十代でジュネーヴに移ってのち、イギリスの片田舎にもどり、六週間、医者宅でともに暮らして診療や往診に立ち会った。そこから病む人と治療する人間をめぐる独創的な考察の記録が生まれた。

「それは母屋から切り離された建物だった。ガレージふたつ分の大きさで、待合室、二部屋の診察室、それに調剤室がある」

ドアに掲げられたプレートには、医師ジョン・ササルにそえて「医学士、外科学士、王立産科婦人科学院産科医」とあった。要するに何だって診(み)る。ヘルニアの手術もする。赤ん坊を取り上げる。貧しい村の「動くワンマン病院」であれば、キッチンのテーブルで盲腸の手術もする。

ざっくばらんで、思いやりがあり、いつも快く往診してくれる。田舎にいても最新の医学情報に努めていて、いくつもの医学雑誌に目を通している。いかにもいい医者だが、バージャーをとらえたのは、そういった特質ではない。この田舎医者が満足感を味わうのは、ほとんどの場合、どの医学的説明も当てはまらず、「その患者独自の人間としての経歴によって決定される力と向き合わ
なければならない症例」においてであって、そういった「孤立した人間の同伴者」になろうとしていること。病んだ人間の「心の底に秘められたものに寄り添おうとするひとりの医師」である。

澄んだガラスのモザイクのようにして、観察と、そこから始まる省察がつづられていく。情緒的な描写は一行もなく、すべてがはっきりと知的に述べてある。

医者であるかぎり、つねに病と死に向き合っている。病んだ人間は病を了解していないし、和解もしていない。医者に問いつめ、糾弾したいくらいのものだ。当然、医者が病を、また死を回避させてくれるものと期待する。貧弱な医学的環境のなかで、田舎医者はかぞえきれないほど、なすすべを知らない状況に立ち会ってきた。近親者を見送った者たちも、しばしば死と和解していない。ここでも医者を問いつめ、糾弾したいぐらいのものなのだ。そういった医師と患者、またその家族との関係の厄介な性質と深さ。

「病気になると、多くのつながりが断ち切られる。病気は自意識を切り刻み、歪(ゆが)んだ断片的なものにしてしまう」

医師は病んだ人との関係を通じて、医師にのみ許された「特別な親密さ」を利用し、断ち切られた関係の埋め合わせをする。患者の心の底にある「友愛への期待」、ササル医師が全人格をもってこたえようとしたのはその一点だ。想像力によって患者の心のなかに入りこもうとする。それは当人が語ったことではなく、イギリスの俊英が描き出した医師像である。だからこそタイトルには「ある田舎医者の物語」の副題がつけられた。

徹底してマニュアル化し、ひたすら技術化した現代医療の世界にあって、この田舎医者は、もはや神話の人物のように思えるだろう。他人を癒(い)やすとはいかなることか。ここにはもの静かな、深く鋭い問いかけがある。かぎりなく求めた人の「果報」と代償、得たものと奪われたものが示されていく。ササル医師は妻の死後一年余、診療をやめて数カ月後に自殺した。
果報者ササル――ある田舎医者の物語 / ジョン・バージャー,ジャン・モア(写真)
果報者ササル――ある田舎医者の物語
  • 著者:ジョン・バージャー,ジャン・モア(写真)
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(216ページ)
  • 発売日:2016-11-11
  • ISBN:4622085526

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2016年11月27日

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