作家論/作家紹介

【ノワール作家ガイド】ジェイムズ・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『倍額保険』『セレナーデ』

  • 2017/10/02
ジェイムズ・マイケル・ケインは一八九二年メリーランド州アナポリスに生まれた。父は同州のワシントン・カレッジの学長で、ケインもここに進学している。父はケインに対して過大な期待を寄せていたと思しく、そのことは学学生時代のケインにとって、大きな負担となった。一八歳でカレッジを出た後、彼がガス・電気会社や精肉加工場などの職を転々としたのは、それに反発してのことではないかと思われる。逆にオペラ歌手であった母への思慕の念は大きく、一時は同じ歌手の道を志したほどである。この肉親へのもつれた感情はケインの人生に人きな影響を与えた。(処女作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のギリシャ人に実父の像を見出すことも可能だろう。)

ケインはワシントン・カレッジで数学とジャーナリズムを学んで修士号を取り、第一次世界大戦従軍後の一七年に、ボルティモァで新聞記者としてのキャリアを開始している。その新聞「ボルティモア・サン」を通じて彼は 評論家のH・L・メンケンに出会うのだが、メンケンこそがケインに創作沽動を勧めた人物だった。やがて、ケインはニューヨークに移って記者を続けるのだが、途中『ニューヨーカー』の編集に関与したりもしている。彼のジャーナリストとしての経歴は、映画界入りを決意して三一年にハリウッドに行くまで続いた。

すでに二八年頃から短篇小説を執筆していたケインだが、処女長篇となったのが三四年の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』である。カリフォルニアの街道脇で食堂を経営するギリシャ人ニック・パパダキスの元に、ある日フランク・チェンバースという若者が現れる。フランクは流れ者なのだが、ニックに誘われてこの食堂で働き始めるのだ。だが、ニックには若すぎる妻・コーラがいた。いつしかフランクはコーラと割りなき仲になり、ニックを殺害して財産をわが物にすることを計画し始める。

すでにこれは定説説となっているが、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、アルベール・カミュ『異邦人』の原型となっている。わが国では慧眼の丸谷才一が五二年にそのことに言及しているが、ヘミングウェイと共にフランス文学界に大きな影響を与えた作家はケインだったのである。丸谷の指摘をそのまま借りれば、「たとえば、世界の不条理の象徴としての裁判というとらえ方。全篇が死刑囚の手記であり、しかもそのことを最後に書き記すという手法。しかし、まず何よりも極めてヘミングウェイふうの文体」が両者の共通点ということになる(『深夜の散歩』)。

ケインの小説には一定の様式がある。それは、女を鍵にして物語が展開するということだ。例えば、大金の獲得を夢見る女と、その女を欲して狂う男。そのとりあわせで産まれたいくつもの悲劇がある。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』に次いで有名なケインの作品『倍額保険(別名:深夜の告白)』(四三)は、生命保険会社の男が顧客の妻に籠絡されて、その顧客を殺害しようとする物語だし、後年の作品『アドレナリンの匂う女』(六五)なども同じ形の小説である。これは『血の収穫』『マルタの鷹』などの作品と並ぶノワールの黄金類型となった。

ケインはほとんどの小説で一人称を使用するが、その語りはしばしばハメット、チャンドラーなどの正統ハードボイルド・スクール(というのはかなり乱暴なくくりであるが)の中にくみ入れられることが多い。ケイン自身は自作をジャンルでくくられることを極端に嫌っているが(ヘミングウェイからの影響は否めないにしろ)、ハードボイルドというジャンルに依存して創作を行うという意識は皆無だったに違いない。この点は同時代人のホレス・マッコイなどにも共通している。

はじめにケインが注目されたのは、性と暴力を直截的な言葉で赤裸々に描いたためである。それは、三〇年代当時のコードではポルノグラフィすれすれのきわどさであった。ケインは語りがむきだしの生を描き出すよう、故意に生々しい表現を使っているのだ。しかも性欲が食欲と連関を持ち、性の衝動が暴力と結合するなど、より本能に近い形での描写がなされている。

例えば、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のフランクとコーラの情事場面――

女を抱き寄せ、その口に自分の口を追っつけた……「噛んで!噛んで!」噛んでやった。

歯が、女の唇に深く食いこみ、血がこっちの口のなかへ噴き出るのがわかった。女を抱いて二階へはこんでいくとき、血は女の首すじを流れていた。(田中西二郎訳)

この前に、フランクが食事中にコーラを見て、食べたものを戻してしまう場面がある。コーラ以外には何も喉を通らない、食欲と性欲が代替可能な一つのものとして描かれているわけだ。この生理感覚がケインの大きな特徴であり、後にはここに宗教観なども重ね合わされるようになっていく。

衝撃的な作品は必ず反発を受けるものだが、ケインも当然多くの批判を浴びた。その最たるものがレイモンド・チャンドラーの批判だろう。「彼は私の嫌いな作家のあらゆる素質を身につけています。まやかしの純真性、油がしみた作業衣を着たプルースト、誰も見ていない板塀のそばでチョークを握っている薄汚い少年。そんな人間は文学の屑肉です。汚いことについて書くからではなく、汚いことを汚く書くからです」と、チャンドラーは書いている(『レイモンド・チャンドラーの生涯』早川書房。もっともこの後、チャンドラーはケインの『深夜の告白』映画化の脚本を書くはめになるのだが)。

卑なるものを突き詰めて書いていくと、それはやがて聖性を帯びていく。ケインはそのことに気付き、実践を試みた作家だった、七七年、故郷のメリーランド州で没。

【必読】『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『倍額保険』『セレナーデ』
郵便配達は二度ベルを鳴らす  / ジェイムズ・M. ケイン
郵便配達は二度ベルを鳴らす
  • 著者:ジェイムズ・M. ケイン
  • 翻訳:池田真紀子
  • 出版社:光文社
  • 装丁:文庫(243ページ)
  • 発売日:2014-07-10
  • ISBN-10:4334752950
  • ISBN-13:978-4334752958

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ジェームス・ケイン選集〈第2巻〉深夜の告白  /
ジェームス・ケイン選集〈第2巻〉深夜の告白
  • 出版社:日本出版協同
  • 装丁:-(163ページ)

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ジェームス・ケイン選集〈第1巻〉セレナーデ
  • 出版社:日本出版協同
  • 装丁:-(232ページ)

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ユリイカ

ユリイカ 2000年12月

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