私が知る限り、小説家にはスランプを自然現象として受け入れる人と、「虚構」として否定する人がいる。前者の例はジュンパ・ラヒリ。後者の代表はトニ・モリスン。
作者自身の不調を見つめて書いたという森見の本作は、スランプの謎を解こうとした迫真のミステリーだ。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズの翻案の形だが、舞台は京都、ヴィクトリア朝京都である。ホームズ、ワトソン、モリアーティ教授、レストレード警部らが揃ってスランプの真っ最中だ。
一方、ドイルのシリーズで影の存在だった者たちが活躍するのも本作の面白さの一つ。ホームズの記録係に甘んじていたワトソンの創作者としての自我が語られ、女性たちが「凱旋」する。ホームズの頭脳を凌駕しながら一作で消えていったあの人、理不尽な仕打ちを受けて消息不明にされてしまったあの人、いつもホームズに家庭を振り回されてきたあの人。
ホームズの天才的な推理力はなぜ消えた? それを掘り下げることは、哲学的創作論にも繋がる。書けなさを腑分けすることで、人間の書く本性が炙りだされる怖い小説だ。