対談・鼎談

森銑三『一代男新考』(冨山房)|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

  • 2017/12/22
一代男新考  / 森 銑三
一代男新考
  • 著者:森 銑三
  • 出版社:冨山房
  • 装丁:-(294ページ)

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丸谷 これは、森銑三氏の六冊目の西鶴論集です。

わたしは、六冊の中で、『西鶴一家言』(河出書房新社)とこの『一代男新考』を読んだだけなんですけれども、六冊の論旨、考え方は一貫して同じらしいんですね。それはつまり、西鶴の真作である浮世草子は『好色一代男』だけであって、それ以外のいわゆる西鶴本は、みんな西鶴以外の者が書いたという説です。これはいうまでもなく、現在の国文学界の通説とまったく違う、革命的な説です。

森さんが、このことに気がついたのは、いわゆる西鶴本の原典を手に取る機会が多かったせいです。そして『一代男』には跋文に西鶴の作だと明記されているけれども、『諸艶大鑑』『一代女』『五人女』『永代蔵』『胸算用』などでは、西鶴の署名がない。ただ何となく西鶴作だということになっている。そこのところから疑い始めたわけです。

で、森さんは、『一代男』とそれ以外の作とを比較して、『一代男』だけが真作という断定に到達したわけですが、その理由のうち最大のものは、『一代男』は俳譜趣味の散文としてすぐれている。詩情に富み、文体がよく、作者の品のよさがうかがわれる。ところが、おそらく団水や西鷺の書いたと思われるほかの作になると、詩情が乏しく、文体も悪く、筆者の人柄の賤しいことがわかる、というところなんです。

この比較は精細をきわめていますが、ちょっと例をあげますと、

一代男全八巻の内には、西鶴はたゞの一回も「汝」の語を使用することをしてゐない。「汝」は純正な国語ではあるけれども、その語の持つ感じが固くて、日常語にはなつてはゐない。俗言平語を以て一代男を書かうとした西鶴が、この語を使用せぬのは当然のことだつたと考へられる。然るに諸艶大鑑以下作品の作者達は、西鶴の用語法を学ばうともせずに、蕪雑な文章を平気で書いてゐるのであり、「汝」の語をも殆ど毎作品に使用してゐるのである。

それから小説の趣向の対比としましては、『一代男』に出てくる食べ物をあげています。女たちが銘々に食べ物のことを言うところがあって――

太夫殿の声として、おれは胡桃あへの餅を飽くほど、とあれば、また望み替へて、鷄の骨抜き、或は山の芋の煮締め、土くれ鳩(の)芹焼、有平糖、生貝のふくら妙りを川口屋の帆掛船の重箱に一杯、と思ひ思ひに好まるゝこそをかし

いかにもうまそうな食べ物が並んでいて、非常にうっとりする。

ところが『一代女』では――

遊び女ながら美食好み、鶴屋の饅頭、川口屋の蒸蕎麦、小浜屋の薬酒、天満の大仏餅、日本橋の釣瓶鮨、椀屋の蒲鉾、樗木筋の仕出し弁当

ただ有名な食べ物を並べただけであって、何の風情もなく、ちっともうまそうに見えない。西鶴ではない人間が書いたものであることは、これでもわかる。そういうふうに森さんはいっているわけです。

ぼくはこの十年ばかり、談林俳諧に興味をもっているんですが、西鶴の俳諧を読んでみると、これがなかなかおもしろいし、いいんです。こういう句をつくる人が、散文となると、どうしてあんな具合に書くんだろうと不思議に思ったことがありました。この場合、わたしが漠然と西鶴の文章として頭に置いていたのは、『一代女』や『五人女』やまあそういうものだったらしい。『一代男』は、何しろあまり以前に読んだものですから、何となく別にしていたような気がします。

俳諧の切れ味を見て不思議だと思ったけれど、それ以上、深く考えなかったんですよ。

ところが、こんどこの本を取りあげるために『一代男』を改めて読んでみたところ、わたしが読んだ俳諧のときの西鶴に似ているんです。言葉という小太刀の使い方が、俳諧の場合と同じくらい冴えているんですね。『五人女』とか『一代女』とかの場合には、そういう冴えが見えないんです。

わたしはひどくショックを受けまして、これは案外、森銑三の説は正しいのかもしれないぞと思いました。

山崎 確かに森さんが提起しておられる問題は、なかなかおもしろいと思います。ただ、その論証の過程だけを見ていきますと、やはり、わたくしのような素人にはわからないことがたくさんある。

たとえば森さんが、『一代男』だけを西鶴の作品だというにあたって、『諸艶大鑑』以下の作品と『一代男』との違いをたいへん強調されるわけですね。そこであがっている一つの論拠は、『諸艶大鑑』以下の作品には、いくつかの共通した語句が頻繁に用いられている。にもかかわらず、それは、『一代男』の中にまったく見られないということです。

しかし、普通ここから出せる論理的な結論というのは、『諸艶大鑑』以下の作品に一つの共通性が見出されるということだけであって、『諸艶大鑑』以下の作品と『一代男』とが、まったく別人の手にかかるものだという論証にはならない。

丸谷 うん。

山崎 というのは、ある一人の天才が一作だけ傑作を書いて、その後、数多い愚作を書いて一生を終わったというケースもある。森さんの価値評価を全面的に認めても、なおかつそういうことがいえます。

いわんや『諸艶大鑑』以下の作品と『一代男』とにおいて、作者のねらいが違うものだと認めれば、ある作品が、若いときには、そのときらしい一つの作風をもっていて、後世まったく作風を変えてしまったにすぎないとも考えられる。

したがって、わたしは『一代男』とそれ以後の西鶴作品と呼ばれるもののあいだに、飛躍的に大きな作風の変化があることはわかりますし、それを指摘されただけで、森さんの学問への貢献はすでに十分だと思うのです。

(次ページに続く)
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初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1978年3月17日

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