書評

【第158回芥川賞】 若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(河出書房新社)、石井遊佳『百年泥』(新潮社)

  • 2018/02/18

言葉とアイデンティティの齟齬めぐる物語

第一五八回の芥川賞をダブル受賞した二作である。若竹氏、六十三歳、石井氏、五十四歳での受賞だ。かつて、綿矢りさと金原ひとみが最年少ダブル受賞で空前の話題を集めたが、今回は、最年長とは言えないまでも、かなりの“熟年コンビ”である。

宮沢賢治の「永訣(えいけつ)の朝」からタイトルを引いた『おらおらでひとりいぐも』は、七十四歳の女性を主人公にした、作者名づけて「玄冬小説」だ。もはや青春小説よりはるかに需要がありそうだし、ネーミングとセルフプロデュースの才に唸(うな)った。

「桃子さん」は東京オリンピックの年、二十四歳で見合い結婚を蹴飛ばして、東北から上京、美男子の「周造」と結婚して二児をなしたが、夫は桃子さんが六十を迎える前に急逝、子どもたちにも距離をおかれ、孤独な独居をつづけている。彼女の来し方と心の内をモノローグの文体で――と書くと、老婦人の思い出話がしっとり展開しそうだが、とんでもない。これはまず、人間の存在論をめぐる哲学小説である。言語的アイデンティティを含む「私とはなにか?」という厳然たる問いに始まり、形而上(けいじじょう)学的な問題がばんばん論じられる。

語りのスタイルもユニークだ。語り手が何層にも分裂して、それぞれに喋(しゃべ)るからかまびすしいこと。いちばん大枠の語り手は、「実は桃子さん、かつてはねずみどころか、ゴキブリ、げじげじの類(たぐい)を見れば」と、三人称文体の標準語で語る。どことなく講談調。しかし、桃子さん自身(「桃子さん本体」とか「表層の桃子さん」なんて呼ばれる)の喋り言葉は、相手によって、標準語だったり、東北弁だったり。さらに、桃子さんの心には、「柔毛突起」みたいな無数の内なる思考者がおり、この人たちの声が東北弁で次々と地の文に押し入ってくるのだ。こんな風に。

「おらどはいったい何者だべ、まで卑近も抽象も、たまげだごとにこの頃は全部東北弁でなのだ。というか、有り体(てい)にいえば、おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。東北弁で。それも一人や二人ではね、大勢の人がいる」。こうして無数の「我」と絶え間なく言いあいながら、桃子さんは老境の孤独を「飼い慣らそう」とする。「おら何如(なじょ)な実を結んだべが」――侘(わび)しい晩年を嘆いてこう自問するが、土地古来の声と、コンテンポラリー文学としての企(たくら)みに充(み)ちた文体と構成が融(と)けあい、見事に実を結んだ。

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞 / 若竹千佐子
おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞
  • 著者:若竹千佐子
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(168ページ)
  • 発売日:2017-11-16
  • ISBN-10:4309026370
  • ISBN-13:978-4309026374
内容紹介:
74歳、ひとり暮らしの桃子さん――新しい「老いの境地」を描いた、第54回文藝賞受賞作。齊藤美奈子氏、保坂和志氏、町田康氏絶賛

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『百年泥』も、言葉とアイデンティティ、その齟齬(そご)をめぐる物語だ。

離婚後、男が原因で借金を作り、南インドに「身売り」されてしまった中年女性が主人公だ。チェンナイの最大手IT企業で日本語教師をしているが、他者との意思疎通にいささか問題を抱えている模様。話しかけられて、<返事>をする必然性にまったく思い至らないという。

本作も語りに趣向が凝らされている。自分の住むアパートから、アダイヤール川をはさんだ対岸にある勤め先へと橋を渡りきるまでが、物語の全尺となっているのだ。しかし当然ながら、そこには回想や、伝聞や、想像などの思念が入りこみ、過去と現在、日本とインドの間を時空間が行き来する。この主人公の歩みを、そう、たとえば多和田葉子やテジュ・コール風の漫歩にしていたらどうだったろう。そう思うと、横道に逸(そ)れられない橋に歩みを限定し、行先を定めたことで、むしろその逸脱性がおもしろく発揮されたことがわかる。これは、主人公が列車に乗りこんでから、定められた鉄路を進み、翻心するまでを描くビュトールの『心変わり』などと同じ効果ではないか。道行きの束縛性から、心の逸れは生まれる。

チェンナイを百年に一度の洪水が襲う。「都会のドブ川の、とほうもない底の底まで攪拌(かくはん)され押しあいへしあい地上に捧(ささ)げられた百年泥」。語り手は空間にも時間にも積もり積もった泥をかきわけて進むが、目の前には、次々と目を疑う光景が……。

“嘘(うそ)”のグラデーションが豊かで笑ってしまう。たとえば、翼をつけて「飛翔(ひしょう)」通勤するというSF的ガジェットの投入や、突然、髪をちりちり焦がす眼力、タミル語がなぜか急に解せるようになる現象、そして百年泥の中から時空を超えて……! ここは、“マサラ・リアリズム”とだけ言っておこう。これらの“ホラ”を、作者はリアリズム小説の手法のなかに澄まし顔でならべていく。

日本語教室でのタミル語話者とのちぐはぐなやりとりや文法的なずれから、図らずして意味に深層性が生まれたりする。だが言葉を交わせないのは、異言語話者同士だけではない。語り手の実母とかつての友人は緘黙(かんもく)症とおぼしく、人魚のように口をきかなかった。しかし語り手はこの友人とインド人生徒の心情や身の上話を詳(つまび)らかに知り得る。言葉が通じ(使え)ないのに如何(いか)にして? 読者はその内容を能弁な語り手の声と言葉で聴くことになるだろう。中盤まできめ細かく構築してきた言語的障壁をもっと活(い)かす方法もあったのでは、と思わないでもないが、いずれ新人離れした力業である。

百年泥 第158回芥川賞受賞 / 石井 遊佳
百年泥 第158回芥川賞受賞
  • 著者:石井 遊佳
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(125ページ)
  • 発売日:2018-01-24
  • ISBN-10:4103515317
  • ISBN-13:978-4103515319
内容紹介:
橋の下に逆巻く川の流れの泥から百年の記憶が蘇る! かつて綴られなかった手紙、眺められなかった風景、聴かれなかった歌。話されなかったことば、濡れなかった雨、ふれられなかった唇が、百年泥だ。流れゆくのは――あったかもしれない人生、群れみだれる人びと……

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毎日新聞 2018年2月4日

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