「生の息吹」と「死の恐怖」の共棲
舞台は海上に浮かぶ亜熱帯の島である。トマス・モアの『ユートピア』の理想郷をはじめ、俗世と離れた「島」は、ユートピアを体現するのに最適の場だ。とはいえ、ユートピアとディストピアには背中合わせの部分があることも忘れてはいけない。みごとな冒頭場面だ。少し引用する。
砂浜に倒れている少女は、炙られているようでもあり、炎の触手に囲われ大事に守られているようでもあった。/少女は真っ白なワンピースを身に纏い、長い黒髪が砂浜で扇状に広がっている。…/少女を包み込んでいるのは赤一面に咲き乱れる彼岸花である。
美しさと安らぎと生の息吹に、禍々しさと死と恐怖の暗示が、この場面には共棲している。それは本作を貫くものだ。
少女は、彼岸花を採りにきた「游娜(ヨナ)」に見つけられ、海のむこうの「ニライカナイ」から来たという意味で、「宇実(ウミ)」と名づけられる。ここは女性が治める島であり、宇実は島に留(とど)まるための条件を突きつけられる。女性しか習得できない島の上位言語<女語(じょご)>を学び、島史の継承者「ノロ」になること。彼女は游娜とともにノロを志すことになる。じつは游娜の友人の少年「拓慈(タツ)」も密かに男人禁制の<女語>を独学し、島の歴史を知ろうとしているのだが……。
なぜ男性は島の統治や歴史から排斥されているのか? 暗黙の過去が関係している。中国と日本と台湾、そして感染症パンデミックにまつわる、侵略と迫害と戦争のむごい歴史である。
作中で話される三つの異なる言語が、小説テクストを独特なものにしている。一つは、游娜が主に使う<ニホン語>で、琉球語と中国語を混合したような言語だ。二つめは、ノロが祭式や歴史伝承に使う<女語>で、現在の日本語とかなり似ている。三つめは、宇実が話してきた<ひのもとことば>である。中国の漢字や漢語を悉く排し、やまとことばをベースに、英語をとりいれた言語だ。「注釈」など、元々それに当たる言葉がない場合は、「アノテーション」とカタカナで表す。
游娜が「彼岸花(ビアンバナー)は麻酔効果あり。常に使用ヨー」と言うと、宇実は「ますいこうか」「しよう」の意味がわからない。游娜は宇実が使うカタカナ語を訊(き)き返す。拓慈は「歴史を図案(・・)で抽象的(・・・)に表現(・・)する」と覚えたての<女語>を駆使する。
これらの言語には、人びとの分断と排他と混交の歴史が刻印されているのだ。
ここに、もう一つの言語が加わる。全知の俯瞰(ふかん)視点をもつ作者が地の文で使う流麗な日本語だ。それは右記の三つのどれとも違う。「瑠璃紺(るりこん)の大海原」「砂蔓(すなづる)が恣(ほしいまま)に蔓延(はびこ)っている」などと、外国語由来の言葉を使い、漢字熟語にやまとことばでルビを振り、随所で琉球語を採り入れ、カタカナ語を用いて、それぞれの国の歴史や文化を融通無碍に織りあわせる。
所謂「第四波フェミニズム」が展開し、新型ウイルスの感染症が地球を襲うなか、本作は世に送りだされた。ル・グインやジョアンナ・ラスといった女性SF作家が生んだフェミニスト・ユートピアの正統的系譜を継ぐ、果敢なマルチリンガル小説である。しかしラストでは寛容と他愛の精神を示した。この島が向かうべきは、作者の言葉のような和合の境地なのだ。