コラム

自己の相対化

  • 2017/07/01
〈表現する〉とは、いったいどのような営為であるのだろうか。そしてまた〈表現されたものを受信する〉とはどのような行為か。机上に百万巻の書物を積み上げ億の時間を費やしても解けそうにない難問であると思われたが、最近、一冊の書物がこの難問を腑分けすることにみごと成功した。『音・ことば・人間』(岩波書店)がその一冊である。

音・ことば・人間  / 武満 徹、川田 順造
音・ことば・人間
  • 著者:武満 徹、川田 順造
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:新書(267ページ)
  • 発売日:1992-11-16
  • ISBN-10:4002601285
  • ISBN-13:978-4002601281
内容紹介:
音のうつろいに「自然」を観る作曲家武満徹と、文字をもたぬ民族のことばと音感に「文明」の意味を問う文化人類学者川田順造。アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、日本での鮮烈な「音」体験を語り合い、人間・文化・風土の本質を洞察する。二人の瑞々しい感性と濶達な精神が光る、魂に響く往復書簡集。

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この書物は、驚くべき読書家でもあり貪欲なまでの人間観察家でもある作曲家武満徹と、西アフリカのモシ族のサバンナの村でこつこつとフィールド・ワークを続け、その仕事の合間にパリへ、東京へと移動する文化人類学者川田順造との間に、十六ヵ月間にわたって交換された公開往復書簡集という体裁をとっているが、どの書簡も四百字詰め原稿用紙に換算すれば二、三十枚になるほども長く、この長さがわたしたち読者に、あたかも「自分ひとりに対して書かれたような手紙」という幻術を仕掛けている。作曲家と人類学者から手紙をもらっているのはわたしたち読者なのではないかと、つい思い込まされてしまうのだ。「公開」と銘は打たれていても手紙は手紙であり、わたしたちは及び腰の覗き屋という格好で頁をめくりはじめるが、しだいに引きずり込まれ、やがて二人が次々に放ってくる設問を必死になって考えている自分を見出す。わたしたちはまず古くて常に新しいこの形式を選びとった二人の智恵に脱帽せざるを得ない。

要約は編集であり、編集には編集者の主観が入ってくる。したがってこれから行う要約は、二人の真意からやや逸脱してしまうだろうと思われるが、わたしはこう読んだと正直に告白するのが、他人の往復書簡に介入したものの最低のつとめでもあろう。

作曲家の語ってくれたことのなかで、とくに心を打たれたのは、日本の楽器についてのふたつのエピソードである。

尺八の横山勝也氏から、尺八吹きが、竹を求めて全国を旅してまわる話を聞いたことがあります。尺八としての至上の音色を発す一本の竹と廻り合うことは、だが、万にひとつの僥倖だそうで、概ねはそんな機会も無い儘に終るのだそうです。竹そのものが既に具えている音色(ねいろ)、横山氏は慥かそれを艶(つや)と言われた。然うした竹と出会うことで、芸は真の高みに至る、これはまさに運命的なことなのだ、と氏は言われる。……

最近ではプラスティックで造られた尺八がでてきて、それはそれで必ずしも悪い音ばかりでもないが、それにしても良質の竹が失われて行くのは悲しい。音色と謂う土から滲みでてくるものの母胎が消えてしまうのです。琵琶の場合にも同じようなことが起こっています。……

一九六七年の冷気きびしい十一月、自作品のニューヨーク・フィルによる初演に立ち会うために、作曲家は演奏者の横山勝也(尺八)や鶴田錦史(琵琶)と共に、ニューヨークのホテルに滞在していたが、

……空気が異常に乾いているので、日本から携えた楽器はいまにも毀れてしまいそうなのです。実際に、部屋に置いた横山勝也氏の尺八の一管はまふたつに裂けました。鶴田錦史さんの琵琶も、その漆で塗られた堅い桑の胴が乾燥のために破(わ)れそうなのです。ホテルの部屋の床に敷きつめられた絨毯の上に水を撒き、二人の演奏家は湿度計と睨めっこでした。

……アトリエを借りて琵琶と尺八のための小さなコンサートを催したことがあります。……

演奏がはじまる前の控えの小部屋で、鶴田さんが、――その折も湿度計と睨めっこだったのですが――突然私に、「もうこれ以上演奏せずに待つのであれば、琵琶は毀れてしまう」と、叫ぶように言われたので……

どうしたのかといえぱ、主催者のひとりであったジャスパー・ジョーンズ(画家)にレタス菜を買ってきてもらい、その一枚一枚で琵琶と尺八とを被ったのだった。そして作曲家は目撃証人として次のように述懐する。

……私は、楽器というものの繊細さと敏感な性質に、ある神秘的な感動をもちました。そして、風土や伝統から離れた抽象的な音楽というものを志向している自分を疑わずにはいられませんでした。たぶん(私が)、個々の楽器の性質についていくらかでも注意深くなり、また、作品が演奏される場所や日時、季節や気候というものを作曲の過程のなかで強く意識するようになったのは、それからのことだと思います。

作曲家のこのひろびろとした述懐に対して人類学者は、都ー鄙(ひな)、文明ー野蛮、中心ー周縁、文明ー未開、文化-自然、王都ー村落、家や里ー野や山などの対概念をふまえながら、たとえば次のような絶妙の応信を行う。

……その特殊な個としての小集団を、先史学や民族誌の知見に基づいて、人類社会全体のなかに位置づけることがどこまで出来るかによって、その個としての小社会の研究の価値の普遍性が決って来るわけですが、(略)作曲の仕事も、文化人類学の研究も、著しく特殊個別的な体験の表現を通じて、ある普遍性に達しようとする点で、方法においても、意外に近接しているのかも知れません。

また同じ手紙で人類学者はこうも書き記す。

…ヨーロッパには、少なくとも文化人類学の分野では、良かれ悪しかれ彼ら自身の社会の過去が作りだした歴史の必然を背負って、学問を創っているという主体的なはげしさがある。日本のように、諸外国の学界の動向をたえず気にしているより、地方的かも知れないが自分たちのものをまず育てようとする気魄がある。……

(次ページに続く)
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