コラム

自己の相対化

  • 2017/07/01

短絡を承知でここまでをまとめれば、ひとまず日本国を、文化においては世界の鄙であり、野蛮であり、周辺であり、未開、自然、村落、そして野や山であると規定して、ひっくるめて「地方的」であるという立場から、しっかりとひとつひとつの仕事を興して行くのが第一だということだろう。つまり、自分という個と、それをとりまく他の現実との関わりをはっきりさせる、そしてそのことを通してたえず自分を相対化する(希望や絶望やおごりや妙なへりくだりの色眼鏡をかけずに自分を眺める)ことが、表現するということであり、その表現を過不足なく読み取ることが受信であると、二人はいっているのである。人間の創り出すものは、地域性と時代の特殊性からは逃れられない、だからそこをまず自己の拠り所としよう、そこから〈表現する〉ということをはじめよう、二人はサバンナからパリから、ニューヨークから、そして東京からそう発信し続ける。

だから「よき日本」を見直そうではないか、というもっと短絡した声が上がりそうだが、二人の真意はそういった近頃はやりの“ネオ国粋主義”の確立の上にあるのでは、もちろんない。むしろ表現者は、ひとまずそれぞれの地域性と時代の特殊性との上に立って自己を確立した上で、逆にそれを制約として捉え、その制約を否定するためにも戦え、といっているのだ。それが普遍性を求める旅への第一歩となるだろう。そういえば作曲家は音というものをこう定義している。「音は自然に対して異を立てるものでありながらそれを妨げず、またそれによって害われないものなのです」と。音と自然とのこの拮抗関係は、個と他者、日本国と世界、表現するものとされるものなどの場合にもぴしゃりとあてはまる。すなわち正確な記述を旨としながら、多義性をも拒絶しないという智恵で、この一冊は溢れている。

そしておしまいに近代小説の祖といわれる『パメラ』が書簡体小説であったことを勘案するとき、この一冊はすぐれた文芸としての側面をもわたしたち読者にみせてくれるのである。

「純文学方面での、最も有力な新人登竜門とされている、さる文学賞を得るには、ひとつのコツがある。外国を舞台にして、そこへ日本人を泳がせろ」という、おもしろくもない冗談がある。もっとも冗談としての質は劣悪であっても、昨今の文学製作情況への多少のうがちとなり得ているところもなくはない。それほど海外に舞台をしつらえた作品の需要は多いのである。だが、たとえば武満徹=川田順造のいう、自分と自分をとりまく現実との関わり具合をはっきりとさせ、自分を相対化する、すなわち〈表現する〉ことに成功している作品が、それらのなかにいったい何作あるかとなると、その答えはそうは明るいものではないであろう。安手の異国情緒と唐突な日本幻想への回帰(これはしばしばアイデンティティなどと片仮名で書かれる)、たいていがこの類型の二本立てから出ることができないでいる。

そのなかで村上春樹の「一九七三年のビンボール」(「群像」昭和五十五年三月号)は、徹底した自己相対化を試みていることで注目されよう。この小説は、渋谷の坂道にあるマンションで友人と共に小さな翻訳事務所を経営するく〈僕〉と、その〈僕〉から七百キロ離れた港の街で絶えずその街からの旅立ちを夢みている〈鼠〉との、ある秋の日常の断片をジャズの即興演奏のように無造作に、しかしじつは細心の注意をもって並べるという型式をとっている。

1973年のピンボール  / 村上 春樹
1973年のピンボール
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(192ページ)
  • 発売日:2004-11-16
  • ISBN-10:4062749114
  • ISBN-13:978-4062749114
内容紹介:
さようなら、3フリッパーのスペースシップ。さようなら、ジェイズ・バー。双子の姉妹との"僕"の日々。女の温もりに沈む"鼠"の渇き。やがて来る一つの季節の終り-デビュー作『風の歌を聴け』で爽やかに80年代の文学を拓いた旗手が、ほろ苦い青春を描く三部作のうち、大いなる予感に満ちた第二弾。

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さて、その秋、〈僕〉は3フリッパーの「スペースシップ」が、自分を呼びつづけているのを感じる。ピンボール遊びは卒業したと思っていたのに、そうではなかったのだ。そこで〈僕〉はかつて自分が慣れ親しんだ「スペースシップ」を探し求める。ピンボール・マシンの研究家が登場して〈僕〉に、「スペースシップ」は日本に三台しか輸入されなかった、と告げる。一台は港の街のバーにある。二台目は渋谷のゲームセンターに流れ、火事で焼けた。そして三台目は新宿のゲームセンターに入ったが、センターは潰れ、いまはさるコレクターの倉庫で眠っている。この三台目こそ〈僕〉の探し求めていた「スペースシップ」だ。〈僕〉はその倉庫へ出かける。そして彼女との再会……。

この倉庫での彼女との邂逅場面の清潔な甘美さと知的なセンチメンタリズムは上等でとても筆舌に尽くし難い。さらに重要なのは、〈僕〉がその体内にとりこんだピンボール・マシン=外国との、やさしく堂々とした結着のつけ方である。希望、絶望、おごり、へつらいなど、いかなる色眼鏡もなく、この二十世紀のコッペリアと一体化し、そして突き離しながら、〈僕〉は、自分と彼女がどう関わり合っているかをたしかめる。こうして〈僕〉はゆっくりとした歩調を保ちながらなにものかになって行くのだ。主人公が海外渡航しない「海外渡航小説」の、これはみごとな収穫といえるだろう。

(次ページに続く)
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