コラム

自己の相対化

  • 2017/07/01

ところで、この他との関わり合いをはっきりさせながら自己を築き上げるという精神の鍛練を、さらに徹底しておこなっているのは、高知県中土佐町久礼(くれ)のカツオ船「第一福丸」(三九トン)のカシキ(飯炊き)純平君である。純平君が第一福丸に乗り込んだのは中学を卒えてすぐのことだったが、そのときの彼は、かつてカツオ船で遭難した父親のあとを継いでとはいうものの、多分にカツオ船員の風体「ダボの七分にセッタぱき、成田不動のお守りかけて、おりゃあ漁師よ、いなせ肩、ワニ皮バンドがみえるかい!」に憧れていた。また愛する女に向かって「女、すっこんどれ!/なに? 女あそびしてきたのが悪い? 命張って男が漁して来たんじゃ、息抜きしてどこが悪い。/日本の男は、人前でキスなどせんから日本の男じゃい。日本の美は(略)亭主関白、男がつっぱるその美じゃ」と怒鳴りつける男らしさに憧れてもいた。そして「肩で風をきって飲み屋街を歩き、大声で話し、酔狂でケンカを売る。つめた指が一つの誇り。出すものはビロチン天下御免。酔っぱらってくるとだれかれなしに酒を注ぐ。いやがるとからむ」船員の邪気のない荒っぽさを自分も身につけたいと思っていた。

だが、この『土佐の一本釣り』(「ビッグコミック」連載中。小学館から第十三巻まで刊行)の作者青柳裕介は、むろん主人公の純平君をこのまま成長させようとはしない。よく調べ抜かれたカツオ船員たちの日常生活に劇的なひねりをかけて純平君の周囲に仕掛け、じっと彼の目ざめるのを待つ。やがて「男の中の男」と見えた船頭(船長)さんがじつは奥さん孝行だったり、また、単なる漁場だと思っていた海に船頭さんが漁の終わるたびに頭をさげたりするのを知って憧れているばかりだった時分には見えなかったことが純平君には見えてくる。すこしでも手を抜くと周囲から「俺達の仕事はサボッていくらじゃねえ、全力で魚釣っていくらなんだ、覚えとくんだな」と叱声が飛ぶ。こうした船上生活が、純平君をすこしずつ男らしい男、というよりも人間らしい人間に鍛えあげて行く。すこし見えれば、次にはもっと多くのことが見えてくる。つまり「文化の理解においては、理解される内容は、全体として定まったものとしてはじめからあるのではなく、理解しようとする主体の働きかけに応じて姿をあらわしてくる」(『音・ことば・人間』一八四頁)のである。べつにいえば、目をみはるたびに、純平君には自分と他人との関わり合いがはっきりとしてくる。こうして粗野な少年は、やがて漁師町のジャン・クリストフになるのである。

土佐の一本釣り 1  / 青柳 裕介
土佐の一本釣り 1
  • 著者:青柳 裕介
  • 出版社:小学館
  • 装丁:単行本(222ページ)
  • ISBN-10:4091801919
  • ISBN-13:978-4091801913
内容紹介:
土佐の漁師町を舞台に繰り広げられる純平と八千代の青春恋愛物語。鬼才・青柳裕介が、日本の男と女たちに送る大長編ドラマ!!第25回小学館漫画賞受賞作。

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作者は練達で、主人公の純平君に自己相対化を強いるだけではなく、己が技法をも相対化している。すなわち第一福丸の操業からじつにしばしば筆を久礼の漁師町へ移すのだ。漁師の妻たちは十ヵ月に一度帰ってくるカツオ船をただひたすら待ちつづける。「一本釣り漁師の女房の心得は、待つことに慣れることそね」と古手の女房が八千代にいう。「カレンダーと暮らすことだよ」。八千代は純平の二つ年上、そして二人はたがいに好き合ってもいる。

洗濯機はどこの家にもあるのだが、妻たちは夫が留守の間はそれを使おうとしない。みんな共同洗い場に集まってくる。淋しいからである。たがいに夫の話をしていないと淋しさで狂いそうになるのだ。そしてちょうどそのころ、カツオ船の上では船員たちが、「長い間、海に出ていると、女の小便だって飲みたいって気になるなあ」と述懐している。この微妙なカットバック、あるいは反響の仕合い。純平は、女が男に従属するものなどではなく、ましてやその逆でもなく、たがいに呼び合い、愛し合う存在であることを知る。そしてまた八千代も、漁師の妻たちの日常から、純平君と世帯を持つとはどういうことかを学ぶ。物語は現在も進行中であり、しかもいま二人は結婚できるかどうかの瀬戸際にいる。

もっとも「あらかじめ先がわかるということが、大衆芸術の効果にとって重要である。予想が当たり、すでに知っていることを確認するという快いショックにうたれ、すでによく親しんでいる経験が証明される」(ラッセル・ナイ著、亀井俊介他訳『アメリカ大衆芸術物語』全三巻、研究社出版)のが大衆芸術の要諦である以上、二人の行末をそう心配することもないだろうが、しかし久し振りに次回の待たれる作物(さくぶつ)が出てきたと思う。読者のひとりとして、純平君の勇気ある自己相対化を心から待つ。つまり一個の人間として早く堂々と自分の足で立ってほしいと願う。 

アメリカ大衆芸術物語 1―気楽な美の神 / ラッセル・ナイ
アメリカ大衆芸術物語 1―気楽な美の神
  • 著者:ラッセル・ナイ
  • 翻訳:亀井 俊介
  • 出版社:研究社
  • 装丁:単行本(242ページ)
  • 発売日:1979-12-00
  • ISBN-10:4327376167
  • ISBN-13:978-4327376161

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