コラム

樋口一葉――なにごとも語るとなしに……

  • 2017/07/04
一葉さん、本郷菊坂の、ほら、あなたが通った伊勢屋質店を壊すかもしれないというのであわてて飛んでいったのよ。何日かして、壊さないって連絡いただいてほっとしました。文学散歩のコースであんなに人が来てるんだもの。家刀自が「お客様の秘密を守るのが質屋の鉄則ですが、一葉さんはご自分で日記に書いてらっしゃるから」と笑ってらした。百年前のお客様は文学全集になって、和机の上に載ってたよ。

ところで、いいニュース。あなたを書いた本が次々出ているの。三枝和子さんの『ひとひらの舟』(人文書院)、読みました。このとこ男性作家の作品を女性の視点で読み直したり、埋もれた女性作家の業績を掘り起こすフェミニズム批評が始まったぼかり。もちろん、あなたは紫式部以来の「女流」の天才といわれているし、切手にもなってお札にもなりかねないほどだけど、それはちょっとちがうんじゃない、と三枝さんはいいたいのだと思うわ。

ひとひらの舟―樋口一葉の生涯 / 三枝 和子
ひとひらの舟―樋口一葉の生涯
  • 著者:三枝 和子
  • 出版社:人文書院
  • 装丁:ハードカバー(189ページ)
  • ISBN-10:4409160567
  • ISBN-13:978-4409160565

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あなたの人生を事実でスッキリと語りながら、出来事の時代の中での意味を見逃してない本です。これだけ伝記や研究が出ているんだもの、意味を見逃さない、というところにかかってくるでしょ? あなたの生まれた明治五年の意味、下級官吏ながら家運上昇期に生まれた娘の意味、萩の舎での位置の意味……。

なかでも目が覚めたのは「戸主」の意味でした。いままでは、生活の重荷をしょった「闘う女家長」のイメージだった。あの鬢(びん)の薄い、口を真一文字に結んだ写真もいけないのよ。人はみな、あなたを貧苦と薄幸で固めるわ。そうかしら。三枝さんは、「一家の戸主であることは女性をかぎりなく自由にする。自立の辛さはあったにしても、一葉はその自由を精一杯生きたのではなかろうか」と見るわけ。ほうら、風景がガラッと変わるでしょう?

令嬢作家の田辺花圃や木村曙が、半井桃水の隠れ家を訪ねられますか? 夫持ちの女性作家の家に、馬場孤蝶や平田禿木みたいに『文学界』の面々が押しかけられる? 一葉さん、あなたが令嬢でも人妻でもなく戸主だったのは正解だったわよ。頭の上になにもない。なんていいことなの。

それであなたは遠い昔の清少納言や紫式部の方にひっついちゃうんだね。「そのあいだが皆無」なんだもの。王朝の妻問婚の時代とは男と女の関係がゆるやかだったから書けたのでしょう?

武家社会になり家父長制が制度化されて女は自由を失っていった。しかも一葉さん、あなたはいい時代に生きたね。明治に入ると男女間で「身体の関係抜きに、艶めかしさを添えて、精神の交流が可能になった」と著者はいっています。その華やぎはそのまま日記に出ているわ。

恥ずかしがらないでね。あなたの半井桃水との恋も過不足なく書かれてるよ。あなたの文学の理想と、彼のすすめる売文の道は天と地ほどもちがってたけど、それでも惹かれたあなた。のぞき込むまなざし、会わずにつのる想い、手紙を書かずにおれないのに投函できない、長火鉢一つ隔てての胸ぐるしさ。「雪の日」の記憶の仮構化。そして断念……。読んでドキドキしちゃった。やっぱりこれは評伝というより自由な伝記文学ですね。

もう一冊、西川祐子さんの『私語り樋口一葉』(リブロポート)も出ました。力作です。あなたになりかわり一人称で書かれてちょっと巫女的なのが気にかかるけど、視線はより客観的で日記に忠実に口語化しています。そして時代を描き込んでもいる。

私語り樋口一葉  / 西川 祐子
私語り樋口一葉
  • 著者:西川 祐子
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(260ページ)
  • 発売日:2011-01-15
  • ISBN-10:4006021828
  • ISBN-13:978-4006021825
内容紹介:
樋口一葉の日記をもとに一人称で書かれた評伝。各章冒頭では死に臨んだ一葉の心境が記され過去が追憶される。幼年時代と父母兄弟のこと、萩の舎入塾と半井桃水との出会い、本郷・龍泉での暮らし、名作の執筆と鴎外・露伴らによる絶賛、そして早すぎる死。一葉は今もなお書かれなかった小説の登場人物となって生きている。

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あなたの「女ことばの規範性」をいちはやく指摘した方だから、「女の作家は小説中のせりふがいかにも乱暴だ。ふだん自分がしゃべっているままを書きうつしても女ことばにはならない」なんて桃水の言葉があなたのエクリチュールにどんな影響を与えたかに注目してるし……。

三枝さんと通底するのは、あなたの有名な「我は女なり」を「職業作家一葉が新しい女として生きざるを得なかった」宣言として読んでるとこね。平塚らいてう以来、これを与謝野晶子の「我は女ぞ」の誇らかさと対比して、圧制下の涙の諦めとみる説が流布しているけど、そうじゃない、あなたは「妻でもなく、妾でもない。世のどの女にも似ない孤独な我を生きた」のですものね。

日曜日に竜泉の一葉記念館に行ったよ。混んでたよ。ケースの中にあなたの恋歌があり、どれもどれも心に響いたわ。

なにごとも語るとなしに玉くしげ
二人いる夜は物も思はず

そうだよね、好きな人といると頭がカラッポになるもの。やっぱりあなたはわれらが同時代人にして共通の姉妹なんだ。あなたを「男性研究者の守り本尊」から「薄幸の聖少女」から解放しなくては、私たちの鎖も切れないのかもしれない。

さしあたり、これからは古めかしい一葉はやめて、なっちゃんて呼んでいい?
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