解説

『たけくらべ』(集英社)

  • 2019/02/09
たけくらべ / 樋口 一葉
たけくらべ
  • 著者:樋口 一葉
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(250ページ)
  • 発売日:1993-12-01
  • ISBN:4087520447
内容紹介:
廓の街に住む勝気な美少女・美登利はお寺の息子・信如にほのかな想いを抱いている。しかしお互いを意識するにつれ会話はぎこちなくなり…。せつなく不器用な初恋を情緒あふれる文体で描いた一葉の名作「たけくらべ」をはじめ代表作三篇を読みやすい新表記で収録。
本屋さんの棚をなんとなく眺めていた。ひらがなばかりの優しいタイトルが目に止まった。初めて樋口一葉の作品に接したのは、高校生の時のこと。文庫本で『たけくらべ』と『にごりえ』を読んだ。

ページをめくりだすと、タイトルとはうってかわって「むずかしいなあ」というのが第一印象だった。文語から意味を読みとるのが精一杯で、なんとか筋の見当をつけながら読み進める。

「つまり、正太は美登利が好きで、美登利は信如にひかれているようで、信如も何だか美登利を思っていて、あれ、だけどケンカでは対立のグループだったよね。ん?この長吉っていうのがつまりその……」

今思い返すと、樋口一葉を読むにあたっては、もっともつまらない読みかただったなあと思う。ハラハラどきどきしながら、「筋」がおもしろくて読むというタイプの小説ではないのだから。

もちろん、筋がつまらない、というのではない。本書に収められている『たけくらべ』『にごりえ』そして『十三夜』、いずれもヒロインは、ドラマチックな人生を背負って生きている。『にごりえ』などは最後に人が死ぬという幕切れだ。それでも何故か、血がカーッと体のなかを駆けめぐるというよりは、しみじみとした味わいが残る。

筋ではなく、それを支えている文体が、なんといっても樋口一葉の魅力なのだと思う。

ヒロインがどんな人生をたどったかということよりも、ヒロインがどんな舞台でどんな風情でどんなふうに泣いたり笑ったりしたか、それがどんな言葉で描かれているか、が一葉作品の味わいどころなのだ。

だから、繰り返し繰り返し、読みたくなる。筋のおもしろさならば、一度読めばすんでしまうはず。

一葉の場合、

「この話は、読んでしまって知っている。だからもう、読まない」ではなく、

「この話は、読んでしまって知っている。だけど、もう一度読みたい」となる。

読んでいるときにしか味わえない、あの独特の感じ。それをまた体験したくて、ページをめくる。

また、筋についてつけ加えると、全体が問いになっていて、答えがないまま、ふうっと終わっている、という感じがする。

『たけくらべ』の美登利は、これからどうなるのか。水仙の作り花をさし入れていったのは、はたして信如だったのか。二人はもう会うことなく、それぞれの人生を歩むのだろうか。

『にごりえ』の場合は、お力と源七の死という結末だが、その原因は謎のままである。無理心中なのか、そうでないのか。

『十三夜』のお関のこれからも、暗澹としている。読者としては心配でならないところで、話は終わってしまう。

読んだあと、ヒロインの人生について、あれこれ考えなくてはならない。答えは、読者に委ねられている。自分の出した答えが、これでよかったのかどうか確かめたくて、また読んでしまうという面も、一葉作品にはあるようだ。答えが作品の中に書いてあるのなら、一度読んで安心できるのだけれど。

話を文体にもどそう。私が、一葉の美しい文体を実感したのは、大学生になってからだった。きっかけは、目で読む一葉ではなく、耳で聞く一葉だった。

知人に誘われて、幸田弘子さんの朗読の会に出かけた。だしものは『にごりえ』。

おい、木村さん、信さん、寄つてお出よ。お寄りといつたら寄つてもいいではないか。又素通りで二葉やへ行く気だらう……

びっくりした。目で文字を追っているときには、あんなに苦労したはずなのに。耳から聞く一葉作品は、ほんとうに生き生きしていて、すーっと心に入ってくる。情景が、ぱあっと広がる。なんにも、むずかしくない。一葉の文章は、すべてが語りの言葉なんだ、と思った。

そして、もう一度『にごりえ』を読んだ。筋を追うのではなく、一葉の語りに耳をかたむける、というつもりで。場面場面を活写する言葉の響きや流れの美しさに、身をゆだねる。それは、とても気持ちのいいことだった。以前とはくらべものにならないほど、一葉の言葉が深く心にしみてきた。

以来私は、一葉作品を友人にすすめるときは、最後にこうつけ加えることにしている。

「一度読んでぴんとこなくても、それで投げださないでね。だまされたと思って、二回読んでみて。きっと、よさがわかるから」

ひとことで言えば、リズミカルで張りのある文体だ。が、さらに魅力なのは、それでいて大和ことばの柔らかさが生きている、という点だろう。これは、小説を書くまえに習練していたという和歌の影響が、あるのかもしれない。

ところで、東京に住んでいると、一葉ゆかりの地をめぐる文学散歩が、簡単にできる。

かつてのまま、というわけにはいかないけれど、それでもなかなか風情のある散歩コースだ。

地下鉄日比谷線の三ノ輪駅で降りると、そこは『たけくらべ』の舞台となったところ。

冒頭の「見返り柳」が、今も同じ場所に揺れている(柳そのものは、昔の木ではないそうだけれど)。残念ながら、お歯ぐろ溝は埋めたてられて、アスファルトの道路になってしまっている。

少し歩くと、大鳥神社や千束神社がある。一葉の住んでいた下谷龍泉寺町(現・台東区竜泉)には「樋口一葉旧居跡」の碑が立っていて、その近くには一葉記念館」もある。

『たけくらべ』の下書き原稿や日記、手紙などが展示されていて、興味深い。すべて筆文字だ。なめらかな墨の跡を見ていると、一葉の息づかいが感じられるような気さえする。

ワープロ原稿では、こうはいかないだろうなあ、と思う。

歌人の佐佐木信綱と樋口一葉が、同じ年生まれとは、ここに来るまで気づかなかった。

「たけくらべ記念碑揮毫当時の佐佐木信綱氏」という写真があって、説明文にそのことが書いてある。

佐佐木信綱は、私の短歌の師である佐佐木幸綱のおじいさんだ。先生から何度か、かつての信綱の思い出話を聞いたことがある。昭和三十八年に亡くなった人なので、そんなに昔の人、という印象ではない。

が、一葉のほうは、ずいぶん昔の人、というイメージを持っていた。早く亡くなったせいと、古風な言葉遣いのためだろう。長生きして、子どもを生んでいれば、今「一葉の孫です」と思い出話をしてくれるような人がいても、おかしくない。それくらい近い時代の人なのだ。

この界隈に移る前は、本郷菊坂町(現・文京区本郷)に一葉は住んでいた。

「えっ、ここが今の東京?」と思うほど、懐かしい風情を残した路地が、あちこちにある。

家々の玄関先には、たくさんの植木鉢や牛乳のための木のポスト。時間をさかのぼったような錯覚にとらわれる。一葉がよく通ったという伊勢屋質店の黒い木造の建物も、そのままだ。

ひときわ奥まった路地に、古い井戸と手押しポンプ。傍には、かつて一葉が住んでいたことを記した看板が、寄り添うように立っている。

下谷龍泉寺町の後にも、一葉はこの近くに戻ってきた。本郷丸山福山町。そこが終焉の地となる。

『にごりえ』の舞台の一つとなった「こんにゃくえんま」(源覚寺)を通り、東京大学のほうへ向かうと、今度は幼少期を過ごした界隈だ。東大の赤門の前にある法真寺、その隣の家で一葉は育った。日記のなかでは「桜木の宿」と呼ばれている。

法真寺では、毎年十一月二十三日に「一葉忌」が行われる。大勢の人が集まり、一葉人気をあらためて感じさせられる一日だ。私が学生のころ聞いて感激した、幸田弘子さんの朗読が、恒例となっている。併せて、一葉にちなむ講演会もある。

さらに境内では、古道具市、焼きそばや飲み物の模擬店などが出て、ちょっとした縁日の風情。町内会の人たちがはっぴを着て、立ち働いている。一葉を偲ぶのにふさわしい、人情味あふれる光景だ。『十三夜』を思わせる人力車の姿まである。

足に余力のあるときは、法真寺から上野の忍ばずの池に向かうのもいい。一葉は、このあたりの小学校に通っていた。

こうして一葉ゆかりの地を歩いていると、不思議なほど懐かしい風景に出会う。都会のなかにあっても、どこかしら昔の面影をとどめているような場所が多い。まるで一葉が、私たちのために残してくれた散歩道のようだ。

好きな作家のゆかりの地を歩くことは、楽しい。「作品への理解を深める」というような堅苦しい発想でなく(国語の授業じゃないんですからネ……)気楽にぶらぶら歩くのがいい。空の下で、もう一度作品世界を反芻して味わう。作品への親しみが、いっそう深くなることは請け合いです。

【この解説が収録されている書籍】
本をよむ日曜日 / 俵 万智
本をよむ日曜日
  • 著者:俵 万智
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(205ページ)
  • ISBN:4309009719
内容紹介:
きょうの予定…一日読書。切ない本、わくわくする本、やさしい気持になれる本 実は楽しい古典から、話題のベストセラーまで「ねぇ、これおもしろかったから読んでみて。」。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

たけくらべ / 樋口 一葉
たけくらべ
  • 著者:樋口 一葉
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(250ページ)
  • 発売日:1993-12-01
  • ISBN:4087520447
内容紹介:
廓の街に住む勝気な美少女・美登利はお寺の息子・信如にほのかな想いを抱いている。しかしお互いを意識するにつれ会話はぎこちなくなり…。せつなく不器用な初恋を情緒あふれる文体で描いた一葉の名作「たけくらべ」をはじめ代表作三篇を読みやすい新表記で収録。

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