対談・鼎談

百目鬼 恭三郎『奇談の時代』(朝日新聞社出版局)

  • 2020/04/24
奇談の時代  / 百目鬼 恭三郎
奇談の時代
  • 著者:百目鬼 恭三郎
  • 出版社:朝日新聞社出版局
  • 装丁:文庫(309ページ)
  • ISBN-10:4022602406
  • ISBN-13:978-4022602404

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山崎 これもまたほとんど要約不可能な本です。朝日新聞の記者であり、日本の大ジャーナリストの一人である著者が、日本に伝わる奇談、怪談の類をいろいろな古典から集めてきて、しかもできるだけ注釈を加えないという姿勢で紹介した本です。ただ、やはりそこには、単なる趣味人や民話収集家と違う姿勢がほのめいており、いろいろな奇談に対して、まことに微妙な趣味的批評を加えているところがおもしろいのです(ALL REVIEWS事務局注:本鼎談は1978年に行われたもの)。

たとえば上州大原の鋳物師に惣左衛門という男がおり、若いときから古典が好きで、記憶力のいいことを自慢にしていた。ある日にわか雨で、人が菰をかぶって走っていくのを見て、惣左衛門の妻が、「『枕草子』に、みのむしの様なるわらわ、と書いているのもあんな恰好だったのでしょうか」といいますと、惣左衛門は、「それは違う、これは『源氏物語』の一節である」という。ところが調べてみると、奥さんのほうが正しかったということがわかった。怒った惣左衛門は、本を妻に投げつけると、そのまま家を出て、自分の聟のところへいったきり一生帰らなかった。

この話を取りあげて、著者はその自律のすさまじさに大いに感動している。一方、平安中期の歌人藤原長能が、藤原公任に歌の欠点を指摘されてから、何も食べられなくなって死んだなどという話に比べると、はるかに堂々として哲学的であるというわけです。この違いを読みとるのは、なかなか難しいのですけれども(笑)。

しかし感覚としては、非常によくわかる。つまり、そういう感覚で、日本の奇談、怪談を取りあげたという点において、この本はきわめてユニークになっています。

もう一つ例をあげますと、能因と藤原節信が初めて会ったとき、それぞれが自分の宝物を見せ合う。能因が懐中から錦の小袋に入れた長柄(ながら)の橋のカンナくずを取り出すと、節信のほうは、懐から紙に包んだ井出の蛙の干物を取り出した。これはすごい物語だというわけです(笑)。

わたくしはある意味でこれは裏返しのジャーナリズムだと思いました。ジャーナリストというのは、世の中のさまざまな事実、実際にあった話を、書き綴るわけですけど、そういう人生を送った人が、逆にさまざまなあり得ない話、信じ難い話ばかりを集めてきた。これは単なる社会批評とか、文明批評ではなくて、自分自身の精神衛生の方法なのだと感じました。

いってみればジャーナリズムの世界は、あらゆることがいろんな意味で建前で処理されている。悪い奴は悪いんだし、いい奴はいい。そのときどきの時代の大義名分で処理されていくわけです。奇談というのは、そういう建前とか、大義名分の裏側にある本音みたいなものが、いちばん露骨に出てくる。人を恨んで化けて出てきた男が、ついでに人の奥さんの腰に取りつくなどという話が出てくるのが奇談でありまして、政治的な争いで、人を呪い殺すというのが、新聞の三面記事なんですね。何かそういう政治的な争いで、勝ったの、負けたのっていう建前で割り切れない人生の真実に、目を向けたくなる新聞記者の気持が、よくわかります。そういう意味で、わたくしはたいへんおもしろかった。

丸谷 この本が出たとたんに、たちまち再版になったらしいんですよ。どうしてこんなにひねくれた本が、再版になるんだろうと思って考えてみたら、要するに、これは戸板康二さんの『ちょっといい話』の親類筋なのね、読者にとっては。

山崎 「ちょっと気味の悪い話」

丸谷 「ちょっとすごい話」(笑)それで気楽に読んでいけば、これはもうじつにおもしろいことの連続ですよね。

犬が人間に噛みついても新聞記事にならないけれども、人間が犬に噛みつけば、それはニュースだという、例のテーゼがあるでしょう。そこで、人間が犬に噛みついた話を、しきりに捜させられるのが、新聞記者でしょう。そういう生活条件の中に、何十年もいる優秀な新聞記者が、新聞のパロディを書いた。それがこの本なんですね。だから知的やじ馬の精神に満ち満ちている。そして、ニュースを紹介する手続きは、いちいち厳密であって、ニュースを解釈する手続きは、その場、その場で違うんだな。新聞のパロディをつくるつもりではじめたのに、かなり新聞的になっているというのがおもしろいですね。

木村 最初に「この本の宣伝のための架空講演」というのがあって、

私にいわせると、さかしらに新しい意味をみつけようとする研究書よりは、この本のような啓蒙書のほうが、文化事業としてはずっと有益であるはずであります

ここで(拍手)なんて書いてある(笑)。つまりここには、自分なりの意見をなかなか書けない新聞記者の怨念みたいのがあるわけですね。それが一気にあらわれているという感じがする。

ただ、この類の本がはやる原因について、こう書いておられる。

安定している時代には、その時代を支配している合理的な思想が強いため、人々の意識に怪奇の入りこんでくる隙はあまりない。ところが、その合理的な思想がゆきづまって、信頼を失うと、怪奇がはびこり出すということなのでありましょう

この点にはちょっと異論があります。合理的な思想が強い時代というのは安定してない時代で、安定してないから、合理的にものを考え、合理的に行動しようとするんですよ。

ところが二十世紀後半の現代、特に石油ショックからあとは、反対に非常に安定しているわけです。これからは一世の風雲児になるとか、月給が十倍になるとか、世界大戦が突如起こるといった可能性はまずないんですね。その意味では先が見えている世界で、合理的なシステムが世界に支配的となりつつあるからこそ、非合理なもの、たとえば星占いとか、オカルトとか、怪奇なものに対して、かなり真面目に関心をもつわけですね。

山崎 奇談の栄えた三つの時代、つまり、平安前期と鎌倉、江戸の後期、これらの共通性をあげると、時代の変り目というよりは、むしろ都市化の時代なんですね。都市というものが非常に豊かになってくる。だから疫病や犯罪も増える反面、都市の人間が、遠くの話、諸国で起こった話にたいへん好奇心をもち、お互いにワイワイと話し合うような場所もあった。そういう世界で奇談が生まれてくるので、だから先ほどいったように、ジャーナリズムの裏返しなんですよね。

丸谷 奇談のいちばん大がかりなものは、西洋のゴシック・ロマンスでしょう。要するに産業革命による啓蒙思潮の発達によって合理主義一点張りの精神が、世界を支配した。それによって処理されない部分が、ゴシック・ロマンスを求めたということになるわけです。安定、不安定という軸ではないんだと思いますね。そうじゃなくて合理的なものが支配的になったときに、その陰の部分として非合理的なものに憧れる。その考え方のほうが広く網を打ってるような感じがしますね。

木村 まったくそうなんです。合理的なものが支配的な時代というのは、社会が非合理に満ち満ちているからです。実際に合理的なものが、交通信号みたいにちゃんとついてしまったときには、非合理のほうが、信仰されるわけですね。

丸谷 だから産業革命の影響を受けた時代は、安定してない時代だよね。

山崎 そうでしょうね。ルネッサンスも安定してない時代ですね。

丸谷 さっきいった日本ジャーナリズム論の反対になっちゃうんですけどね。もし日本のジャーナリズムが、この程度にまで実証的にニュースに対応して、このくらい良質の文章でニュースを書くようになったなら、日本のジャーナリズムは飛躍的に進歩すると思いますね。この本が現代日本の新聞に対するいやがらせであるとすれば、文献上の実証的な堅固さと、それから文章の質のよさですね。その点では徹底的な批判になってると思う。

山崎 わたくしが、ジャーナリズムのパロディ、あるいは裏返しといった理由は、二つあるんですよ。

一つは、たとえばこういうエピソードが出てきます。ある女が人から物をかりたのに返さなかった。それで貸し主は、その恨みを晴らすために、その女の子供に生まれかわった。その子供は、自分で歩くこともできず、親にすがりついてものを食ってばかりいるんですね。それをある名僧が見て、「その子供を、水の中へ叩きこめ」という。叩きこんでみたら、果たせるかな、ものの怪が落ちた。そのあとに著者がほんの二行ばかりつけ足して、現代人にも思い当るところがあろうと書いてある。これは子供といえば「よい子」と書く、いまの日本のジャーナリズムが、決して触れない人生の一面なんですよね。

もう一つ、非常に微妙なもので、事柄や人間の価値判断を行なうということですね。つまり、曰くいい難いもの、きわめて趣味的なもの、それを百目鬼さんという人は、非常にたくさんもってるに違いない。ところが、これは三段抜きの見出しであるか、一段のベタ記事であるかを判断するときに働くものは、趣味じゃないわけだ。ここで著者は思う存分趣味を発揮してそのうっぷんを晴らしているわけですよ。だからある意味では、わかりにくいところがある。

たいへんいい茶釜をもってる男がいた。太閤秀吉が「それをよこせ」といったら、やれば代わりがない、しかし騒がれるのもうるさいといって、これを叩き割った。これに対して百目鬼さんは、ほんとにさばけた人間なら、くれてやってもいいだろうし、太閤だからといって、ことさら強い拒絶反応を示すのは、大人げないことである、と批評している。

ところが、すぐその次にこういう話があります。ある男が鶉を飼っていた。そのいい声に惚れて、府中の藩主松平頼明が使者をつかわし、「二十両出すから譲ってほしい。それで具足でも修理されたほうが、鶉を飼うより武士らしいでしょう」ともちかけた。すると飼い主は、その鶉を焼いて使者に食わせてこういった。「これがその二十両の鶉です。商売するよりは、酒の肴にしたほうが侍らしいでしょう」。著者はこちらのほうがいい趣味だと書いてるわけね(笑)。

この二つを比較することは、たいへんむずかしいんですけれども、何かわかるような気もする。百目鬼さんにとって、新聞整理部的な価値評価の世界に暮らしたことが、やはり多少辛いことだったろうなと思いますよ。

木村 東洋の奇談は、西洋のお伽噺にくらべると実におとなしいですね。グリム童話には、継母が子供を殺し、それをスープにして、自分の夫に飲ませるといった話が出てくる。この本にも日本の母親が子供を食おうとする話がありますが、鬼になって食うわけです。ヨーロッパでは、人間がそのまま人間を食ってる(笑)。はるかに凄まじいですよ。日本は鬼にならないと食えないが、向こうじゃ童話に出てくるんですから(笑)。

それから門の額が人間に襲いかかったり、人間を踏みつけにする話があるでしょう。字が人間を襲うっていう話は、ヨーロッパでは聞かないですね。

丸谷 字に対する信仰がないもの。

木村 そうそう、だから日本人は繊細なんですね。「怨」という一字を書かれただけで、ふるえあがっちゃう(笑)。

それから中国との対比が、わたしはたいへんおもしろいと思った。「杓子と話をする枕」が出てきますが、こういう話は日本にはすくないようですね。たとえば、唐傘のお化けは人間の顔をしているわけで、唐傘が茶臼に化けたり、箒が手桶に化けるって話はない。このことは十八世紀の三浦梅園が指摘していて、彼はこれを「人癖(ひとくせ)」と呼んでいます。そういう意味じゃ、日本のほうが中国よりはるかに人間的なんですね。

山崎 そういえば、提灯のお化けも、舌を出してますな(笑)。

丸谷 お化けというのは、そういうものなんですよ(笑)。

奇談の時代  / 百目鬼 恭三郎
奇談の時代
  • 著者:百目鬼 恭三郎
  • 出版社:朝日新聞社出版局
  • 装丁:文庫(309ページ)
  • ISBN-10:4022602406
  • ISBN-13:978-4022602404

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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
鼎談書評  / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:-(326ページ)
  • 発売日:1979-09-00

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初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1978年10月13日号

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