書評
『フジ三太郎名場面 1』(朝日新聞社出版局)
男女を通して世間を描いた“時間泥棒”
フジ三太郎が終わった。長い長い間、朝か晩の一刻を楽しませていただいた。連載開始が昭和四十年四月一日、二十六年半、八千百六十八回に及ぶという。一回の読み時間を十秒とすると計二十三時間弱で、長い付き合いの割に短い気もするが、新聞の発行部数約八百三十万部に平均講読家族三人を掛けて計算すると二千三百八十六万日分の時間を国民から奪ったことになる。時間泥棒の罪はけっして軽くない。サザエさんに続く大泥棒め。
しかし、その割には不思議なことが一つある。読者の皆さん、登場人物の名前を何人覚えてますか?
あれだけ長いご近所、会社でのお付き合いにもかかわらず、三太郎と息子の小太郎を除くと、前髪ピョンの奥さんも、ポッチャリ型の女部長も、とんがり頭の課長も、帰国子女っぽい鼻高の女係長も、常連の名をほとんど思い出せない。あわてて今度の傑作選のページをめくってみて、奥さんがびわ子、課長が万年さんで係長が馬奈女史と知ったが、ついに娘も同居のおばあさんも不明。
じつに主人公の家族が名無し同然だったのである。このことはちょっと注目していいんじゃないだろうか。
磯野家はサザエさんとマスオのフグ田夫婦を軸に、ナミヘイ、フネの老夫婦とカツオにワカメ、タラちゃんと三代が入り混じり、カツオとワカメは老夫婦の、タラちゃんはサザエさんの子供という入り組んだ家族関係にありながら、人間関係の力学が微細に描かれ、全体として一つの調和を見せてくれた。
しかしフジ家の方では、家族の名がほとんど記憶されていないことに象徴されるように、あるいは同居のおばあさんがフネさんのようなプラスの存在感を持って登場したことが一度もないように、家族の像はやせ細っていた。
しかし、磯野さんちにくらべフジさんのところは冷たい、なんて言いたいわけではない。磯野家だって高度成長期を通過してカツオの代になれば、核家族化でただの同居人になった未亡人のサザエばあさんが狭い家の中で嫁の悪口言ってるにちがいないのだから。しゅうとめになったサザエはこわいゾ。
家族像のやせ細りを知っていたサトウサンペイは、家族を通して世間を描こうとはしなかった。
代わりに、男女を通した。
男女を通すことで、サザエさんの偽善はまぬがれた。寺山修司が見抜いたように「マスオが、サザエと結婚しながらついにその性生活を十年間ものあいだ、暗示だにされない」「マスオの性欲は『家』の力によって去勢されかけている」というような心配はフジ三太郎には全くない。奥さんともうまくいってるようだし、外に出れば若い娘が気になって気になって、テーマの半分はそんなだった。
読者からの「大朝日が」という批判は長く続いたが、新聞漫画に男女を通して見た世間を登場させた功績は大きい。
なお、サトウサンペイの次は単身者を描かせたらこの人の右に出る者はいないいしいひさいちの登場というが、家族→男女→単身者。朝日の連載漫画の優位は当分続きそうである。
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