名もなき民衆が生き生きと
リアリティとイマジネーションをミックスし、一から万の齣(こま)であらゆる事象を表現するメディア――これこそ「萬画(まんが)」だと、石ノ森章太郎は高らかに宣言する。そして「マンガ日本の歴史」四十八巻に加えて、「現代篇」七巻を完成させた。議会開設から大正デモクラシーまでに三巻、昭和戦前期に二巻、占領から高度成長までに二巻という配分は、現代史を描くのに適当と思われる。実は中・高校生がよく読む「学習マンガ」を含めて、これまでの歴史マンガでは、民衆や社会の動きをヴィヴィッドに描き出すのに対して、権力者やハイ・ポリティクスの動きを捉(とら)えるのに難があった。えてして民衆=善、権力者=悪といった単純な善玉悪玉史観に陥りがちだったからである。
石ノ森の「現代篇」は伊藤隆の原案を得てその難点を克服すべく試みている。全体を通して、演劇・映画・流行歌の挿入で社会背景を明らかにし、名もなき民衆の会話で各時代固有の歴史事象を解説し、権力者相互の議論で一枚岩ではなく複雑な対立の構造をもつ政治の動きを考案するという、三つのパターンから成る。しかもそれらを固定せず、時代に応じて自由自在にミックスするのが、石ノ森の「萬画」における力量の見せどころなのだ。
ハイ・ポリティクスの面では、初期議会における藩閥と民党との対立から妥協の過程を描いた一巻が、「萬画」としての筋が通り見事である。また日中戦争から太平洋戦争をテーマとした五巻では、伊藤隆発掘の「石射猪太郎日記」などの新資料がふんだんに使われており、「萬画」の実証性を見る思いがする。
だがそれにしても、石ノ森の作画が「サイボーグ009」以来のタッチで最も生き生きするのは、名もなき民衆を描いた場面である。権力者は明治期を除けば、おしなべて無個性であり魅力に乏しい。果たしてそれは、メディアとしての「萬画」の限界なのか、それとも我々自身の「歴史」の限界なのであろうか。