「老齢の素浪人」の概念消し飛ぶ
※ALL REVIEWS事務局注:本書評対象は既刊1~7集私のような歴史学の門外漢は、歴史フィクションで歴史を知ったつもりになる。坂本龍馬は言うまでもないが、隠れた好例が北条早雲だ。
従来は海音寺潮五郎の『武将列伝』(1959~63年)に代表される北条早雲像が定番だった。「一介の旅浪人から身をおこし」「五八から六〇までの間にやっと一城の主になれた」とされ、老齢の素浪人が地盤のない関東で下克上に挑み戦国大名の魁(さきがけ)となったというイメージが魅力的だった。
ところが近年の歴史研究が、そうした早雲像をひっくり返している。最新の研究を踏まえ現在のところ決定版伝記とされるのは黒田基樹著『戦国大名・伊勢宗瑞(そうずい)』(2019年、角川選書)。出家前は伊勢新九郎盛時で、浪人どころか室町幕府の有力官僚。備中伊勢氏の庶流、荏原(えばら)(現在の岡山県井原市)に領国と高越城を持ち、年齢は24歳は若いというのが黒田説だ。10代から幕府と領国で揉(も)まれ、37歳で伊豆侵攻を決行したというのだから、それまで支持されてきた理由の大半が消し飛んでしまう。
本書はフィクションだがストーリーの骨子はほぼ黒田らの新説に沿っており、その上で漫画の技法を活かしている。ラブコメ風の絵柄やギャグが歴史物語にも有効で、驚かされる。
私は『荘直温(しょうなおはる)伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』(吉備人出版)で、荏原の伊勢家領国の東隣(現在の井原線で隣駅)にある草壁の庄と猿掛城を本拠地とした「庄氏」について、江戸時代に書かれたと目される庄家津々本家の系図をもとに紹介した。その際にもっとも想像しづらかったのは、いまは竹林である庄氏館のかつての姿や狭い山陽道を軍兵が行き交う様子、さらに京都の本家と備中の在郷庶子の対立だった。京都の細川京兆(けいちょう)家に仕える内衆(うちしゅ)と守護代の立場の違いが、とてもイメージできなかったのだ。
本書はそのイメージを想像で膨らませ、圧倒的な画力で描き出している。歳をとったり弱ったりも含めて100人を超える人物を描き分け、伊豆侵攻の引き金となる姉の「北川殿」もキャラクター設定で布石がある。とくに第4集以降の「領地経営」編では、西荏原と東荏原の伊勢氏内で領地争いが繰り広げられ、膝を打った。なかでも新九郎が城主館で東西伊勢氏および那須家を和解させる仲介役に「庄伊豆守元資」を引っ張り出す場面は見どころだ。
ちなみに守護代であった伊豆守元資は1491年、吉備津神社や周辺の倉を襲撃し500人が死亡するという「備中大合戦」を起こし、守護である細川勝久に包囲され、遁走(とんそう)している。新九郎が伊豆を侵攻する直前の出来事である。細川京兆家の内衆である庄本家には系図上、おそらく別人でより若い駿河守元資がおり、庄氏内でも確執が存在したに違いない。細川や本家の権威でも黙らない地方勢力が胎動しつつあった。
新九郎は生真面目かつ思慮深く設定され、京都では応仁の乱で将軍周辺の権謀術数を体感し、荏原でも領主としての悪戦苦闘を経て成長していく様が描かれる。20年後に伊勢宗瑞となって以降の関東制圧は「堅実にして老練」と称(たた)えられるが、その説明とすれば大いに説得的。ここから姉の嫁ぎ先・今川氏(義忠)に話が移る。楽しみな大河コミックだ。