ゴシップとサルの毛づくろいの関係
ゴシップ:うわさ話。無駄話。閑談(広辞苑)。ゴシップの嫌いな人はこの一冊はまたいで通った方がいい。なんせ、サルが人間になりおおせたのも、ことばを持ちえたのも、ひとえにゴシップのおかげだったと力説するのだから。もしこの説を認めるなら、文学も文明もすべてゴシップを母として生まれたことになる。帯に、生物学、脳生理学、人類学、心理学などの最新成果を踏まえ五百万年を鳥瞰し、ことばの進化の歴史を根底から覆す、と書いてあるが、もし本当なら、たしかにこれまでの諸説は根底から覆る。
聞かせてもらおう。
サル学者の著者は、まず、サルの毛づくろいからはじめる。俗説のようにノミを取ってるんじゃなくて「はがれた皮膚や毛玉や葉のかけら」を除き、毛と皮膚を衛生的にするのが直接の目的なのだが、それだけでは収まらない。サルに毛づくろいしてもらうとどんな気分になるかというと、「肌をそっとつまんでつついて揉みながら、一つのしみから新たに見つけ出した別のほくろへと驚きながら動いていくのである。肌をつままれることによる束の間の面食らうような痛みは、心を和らげるような喜びの感覚に取って代わられ、それが意識の中心から外側へじわっと広がっていく」
人間さまの愛撫に近い行為で、これをするのは、サル同士の友好の確認のため。動物園のサル山を見てると、ヒマつぶしに毛づくろいしてるように見えるが、えさ探しに忙しい野生のサルでも、貴重な生活時間の一〇%から二〇%を費やして、群の中のいろんな組み合わせで毛づくろいに精を出す。社会的動物としてのサルが群を作るがゆえに内部に生ずるストレスや対立を解消し、平穏に生存するためにはどうしても欠かせない行為なのである。
しかし、それがなぜ人間さまの言葉の発生につながるのか。愛撫だけじゃ足りなくて、甘い言葉の一つもかけるマメなサルが人間に進化したとでも言うのか。結果的にはそうらしいが、論理はもっとちゃんとしている。
その前に、人の社会について。人の社会で流通する情報の過半は、人についてのもの、それも直接どうでもいいような話、つまりゴシップであることをいろんな統計で証明する。たしかに、新聞の三面、週刊誌、テレビのワイドショー、そして少人数での集まり、これを否定することはむずかしい。人の言葉の多くはむだ話に費やされているのである。有力な言葉起源説に、男の狩りの時の情報伝達説があるが、現代に照らすとこれは疑わしく、女の井戸端会議説の方が妥当。人間社会のストレスと対立を減らすために、私たちは日々、むだ話に時間と言葉を費やしている。
サルの毛づくろいと人のゴシップ。たしかによく似ているが、これをどんな論理でつなげるのか。著者は言う。サルの群がどんどん大きくなった時、一対一でしかできない毛づくろいではとても間に合わなくなり、それまで狩りの時の合図などにしか使われていなかった音声が言葉に変わり、一対多の言葉による毛づくろいが可能になったのだと。
実用の道具としての言葉ではなくて、社会を営むための安全弁としての言葉、さらに言うなら文化としての言葉。たしかにこっちの方が高度な起源のように思えて、人間としてはうれしい。
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