さりげない英文に潜む妙を知る
日本語話者はどうしてなかなか英語を話せるようにならないのかという議論が喧(かまびす)しい。その大きな理由の一つとして、インプット(読む・聴く)の圧倒的な不足があるのだけれど、不思議なのは、あたかも英語には読む、聴く、書く、話すという四つに分かれた技能があり、話す能力だけ独立して養えるかのような政策や指導法が目立つことだ。
会話力というのは、読み、聴き、書く生活の中で総合的に形成される“合わせ技”。読む・聴くのインプットで土壌を肥やして書く感覚を身につければ、自然と話せるようになる。日本語話者にはこれが確実だと思うのだけど、そんな面倒なことはすっ飛ばしてペラペラになる方法があるはずだという幻想が抜きがたい。
さて、『イギリス小説の傑作』は、英文学の名作を味わって読むことで英語の読解力を高め、読解力を高めることで作品を深く味わえるという、往還的な効果をもたらす指南書だ。
取りあげられるのは、シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、モーム『人間の絆』、など、十九世紀から二十世紀末までの長編小説が十編。
さらりと読んだときには意識しない小さな点から、作品の本質を言い当てるような指摘がなされていくのが痛快だ。
たとえば、オースティンの『高慢と偏見』。隣にいわゆる独身貴族が越してくると聞き、五人姉妹の母ベネット夫人は色めき立つ。夫は如才なく夫人に、おまえは挨拶に行かないほうがいいよ、娘たちが霞(かす)んでしまうかもしれない、といったことを言う。
夫人は賛辞に気を良くするが、問題はつぎの夫のセリフだ。著者は文中のwomanの前が不定冠詞のaになっていることに注目。夫はさらに妻を持ちあげているのか、それともさりげなく落としているのか? イギリス系の小説には、一般論の顔をした嫌味というのがよく出てくる。
助動詞の機微が読めることも、理解を深める。本作の名高い冒頭の一文で、must(語り手の推量や心情を表す)がおかしな使われ方をしているのはなぜか。このミステリーが解かれることで、本作の批評性が見事に浮き彫りになる。
冠詞といえば、コンラッド『闇の奥』の名場面、The horror! The horror!というクルツの今わの際の叫びに対する解説も目から鱗が落ちた。ここにあるはずの省略部分、まさに“闇の奥”を読み解くことになる。
ウルフの『ダロウェイ夫人』では、ダロウェイ夫人から端役にすっと視点が移る瞬間を倒置構文から割りだし、現在時制への変化を指して小説のナラティヴの特質を語る。
最終章で取りあげられるイシグロ『日の名残り』は、第二次大戦後の新時代に戸惑う執事の回想。この人物が文学史に残る名キャラクターたりえたのは、精妙な“信用できない語り手”ぶりゆえだが、その語りの質を醞醸(うんじょう)しているのは悔やみの念である。再会したケントン嬢との別れの場面で、what might have been.というたった四語によってそれを表現するイシグロの芸。そこに精確な光を当てる解説。
英語がわかるとは、こういうことだ。