象徴や身ぶりと文法が相互作用
南米のアマゾン川流域に住む少数民族・ピダハンと暮らしながら、その場に根付く特異な言語を探求した一冊『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』が話題となった著者の新著。ピダハンの言語は、右/左や数の概念を持たず、「ありがとう」などの社交的言葉を持たない。言語学の世界では、まず、文法の発生が問われがちだが、そもそも、「世界中の誰もが理解できる普遍的な人間の言語は存在していない」し、「人間が生まれながら心に備えている、文法のためのテンプレートなどというもの」はないとする。
真っ先に文法があるのではなく、言語は「文化的に発明されたシンボルを介して始まった」のだ。文法は言語の大きな助けになるものの、わずかな部分でしかない。言語の構成要素を一部分捉えるだけでは決して全体を理解できない。
多くの言語学者や人類学者は、ジェスチャーを「言葉の二次的な装飾」にすぎないと片してしまうが、決して二次的ではなく、ジェスチャーや語順、イントネーション、そして文法などが相互に作用することによって言語が発生したのではないか。形成される文化と言語の隙間には「ダークマター」=「暗黙の構造化された知識、優先される価値、社会的役割」があるのだ。
当然のことだ。私たちは、コミュニケーションを反復しながら、徐々にすり合わせ、人と疎通する。言語には明確な発生や定着の瞬間があるわけではない。常に複合的に、他の要素と絡み合ったままだ。「人間の言語には漏れがある。数学のような、完璧に論理的な符号ではない」
時を重ねる中で言語が複雑化していったのではなく、もともと複雑な社会から言語が発生してきた。幹から枝分かれしていったのではなく、そもそも幹なんてものはあったのだろうかと疑う。ならばなぜ今、ある類似性を持つ多くの言語が存在するのか。スリリングな実証に圧倒される。