対談・鼎談

竹本 津大夫『文楽三代―竹本津大夫聞書』(大阪書籍)

  • 2023/03/19
文楽三代―竹本津大夫聞書 / 竹本 津大夫
文楽三代―竹本津大夫聞書
  • 著者:竹本 津大夫
  • 出版社:大阪書籍
  • 装丁:単行本(186ページ)
  • 発売日:1984-01-01
  • ISBN-10:475481035X
  • ISBN-13:978-4754810351

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山崎 最近、大阪に国立文楽劇場ができて、文楽にもあらためて光があたるようになったわけですが(ALL REVIEWS事務局注:本鼎談実施時期は1983年)、その文楽の指導的な浄瑠璃語り、四世竹本津大夫の芸談・履歴を聞き書きのかたちでまとめたものです。
四世津大夫は、文楽の世界では少し異色の存在です。ご承知のように、日本の芸能の中で文楽だけがあまり世襲ということをしない。その中で、この人は三世津大夫の実子であり、昭和の代表的三味線弾きであった鶴澤寛治の娘婿であるという、文楽の世界におけるプリンスというような出自を持ち、実力の点でも、現在の文楽を背負って立つ大夫さんです。
そういう人が、非常に平易な言葉で、文楽の鑑賞案内を語った、と見ることができますし、父と自分の芸歴を喋ることによって、大正から昭和にかけての、ある片隅の文化史を語った、とも見ることができます。
たとえば、大正から昭和初期にかけての文楽は、実に生活の中に融けこんでいて、革命家の堺利彦が三世津大夫を呼び出してミナミの色街に一緒にくりこんだという話があったりします。昭和の初めの文楽人は意外にハイカラで、ボルサリーノの帽子をかぶっていたとか、昭和初年、サラリーマンの初任給が月額三十円だったころ、津大夫の日給がなんと六十円だった、という話などいろいろ過ぎた日のことを思わせます。
聞きとりをした朝日新聞の田結荘(たゆいのしょう)さんが、難しい言葉はやさしく置きかえ、この世界独特の隠語には注釈をつけ、素人にも分りやすいように書いてある。普通、芸談というと、その芸の分っている人に対して書くものですが、そういう意味でも、これは異色で、よくできた芸談の一つではないかと思います。

丸谷 明治の摂津大掾(だいじょう)の「九段目」を聞いたある男が「大したことない」といったので「そんなことがあるものか」と呼んできて語ってもらった。そうしたらすごくうまい。すると摂津大掾が「私は玄人でございます。舞台で語りますときは、初めての人にも、どちらさまにもわかっていただけるように語ります。けど、今日のみなさまのように、義太夫がおわかりになる研究的なお集まりの席では、そのように語らせていただきます」と言ったという話がでてきます。
さらに、津大夫が軍隊に行った時、兵隊から「語ってくれ」とせがまれたら、隊長が「この人は素人ではない、お金をとって聞かせる本職の大夫や」といって断ってくれた、というんです。
こういうふうに玄人とかプロとかという言葉が、何度も何度も出てくる。逆にいうと、素人義太夫が大阪では非常に盛んだった。それを区別するため玄人、プロという言葉がでてくるんですね。

山崎 そのとおりですね。

丸谷 つまり上に少数の玄人がおり、下に多数の素人がいる、そういう義太夫的共同体というものが、かつての大阪には確実にあった。あったからこそ兵隊にとられたときも、優遇されていた。まあ私にいわせると、義太夫語りを優遇するような軍隊では、弱いのは当り前。(笑)

山崎 たしかに、大阪の軍隊は弱いので有名でした。(笑)

丸谷 そういう義太夫的共同体が続いてきて、そしていまでもどうやら、ちゃんと生きているらしい、そこのところが私には一番面白いところでした。

山崎 先ほども言いましたように、日本の芸能の中で文楽だけが特殊で、プロの家がない。能は家元制ですし、歌舞伎も襲名が基本です。ところが文楽は大抵、素人がプロになる。その意味ではたいへん近代的な芸能なんです。

丸谷 立教の長島がジャイアンツに入るみたいなものですね。(笑)

山崎 そういうことです。そこでかえってプロ意識が強く出てくる。

木村 パーフォーマンス芸術という言葉があるように、現代は文字の時代から、体全体で芸術を表現する時代にきていますね。そのとき、何より大事なのは、はっきりと大きな声を出すということだと思います。私など人形浄瑠璃を見ましても、人形のほうは見ずに、義太夫を語っている大夫の顔の表情ばかり見ています。(笑)そのほうがはるかに面白い。あれほど顔がダイナミックに動く芸術は、世界にもないんじゃないかと思うんです。

山崎 それはたいへんな見巧者のお言葉です。

木村 いえいえ……。(笑)三世津大夫が「熊谷陣屋」を語り終えて〈風呂場の床の上に、あおむけにひっくり返ったままで、青い顔してゼイゼイ荒い息をしておりました。体力も気力も使い果して、よう動かんのです〉とあります。全身全霊を傾けているわけですね。
「声が大きい」というのは、単に「どなる」ことではなく、腹力を利用する独特な発声法によるものだ、というんです。声帯が破れて〈私の使っております「合邦」の本には、玉手御前のしっとのくだりの行間に血が飛んで、点々と黒くなっております〉、――私はここに非常に感動しました。今の学生を見ますと、大体声が出ない。ボソボソ、ボソボソと、眠っているのか起きているのか、まるで魚が死んだような感じなんですね。(笑)はっきり声を出すということは、これからの国際社会に生きるうえでも、きわめて大切なことなんですけれど。
もう一つ感動したのは、今の演劇は、客席と舞台との交流がない。舞台ばかりに光があたって、客席は闇で、演者は虚空にむかって吠えているような感じです。
ところがこの本によると、昔は舞台と客席が一つにとけあって、文楽を愉しんでいた。客席を意識したアドリブも出るし、組見(くみけん)(ご贔屓筋の団体鑑賞)によって、技芸員と客とのあいだに人間的ふれあいがあった。この本は、そういう演劇の原点にふれている気がしましたね。

山崎 大きな声を出すというのは、意外に大事なことなんです。芝居というものは、結局、人間の心を描くわけですが、心なんて誰でももっているわけで、ただ表現するだけならばかでもできる。大きな声で心理を表現しろといわれると、これができない。

木村 愛の告白などは、女にクルッと背をむけて「好きだよ」って小声でささやくものでしょう。あまり大声ではいわない。(笑)それを大きな声で表現しろというのは実に難しい。芸術的な才能と訓練も必要とします。

山崎 つまり大きい声を出すということは、心理作業をいったん難しい課題にしたうえで、あらためてそれをこなすという作業なんです。自分の鼻の先で芝居をしてはいけない、客席に届くところで芝居をしろというのは、あらゆる芸能に通じることなんですね。ところで、ひょっとすると、これは小説家にもいえることかもしれない。

丸谷 大きな声を出すことができるくらいに論理的でなきゃならないってことですね。

山崎 そうそう、その上で微妙でなければならないということですね。
木村さんは大夫の顔を見ていると面白いとおっしゃったんですが、正しい観方だと思います。

木村 この本にはそう書いてありませんが。(笑)

丸谷 それは自分の顔は見られないもの。(笑)

山崎 文楽というのは、演劇の演技の要素を絵解きして舞台に上げたような仕掛けをもっているんです。というのは、動かない大夫は感情を込めて、いまにも血管が破裂しそうな顔をして、泣いたり笑ったりする。一方、動いている人形遣いは、一つも表情を動かさない。
つまり、演技というのを、少し理屈っぽくいいますと、二つの要素から成りたっている。ある役に感情的に没入して、興奮の極致に入るということと、逆に、自分の身体を道具のように冷静に操って、正確に何事かを表現するという、まったく矛盾する技術の統一体なんです。

木村 なァるほど。

丸谷 うまいものだねえ。(笑)

山崎 あらゆる演技はそういう構造をもっているんですが、文楽はそれを二人で分業してやる。
それはさて置き、この本を読むと日本の芸能の特色がよくわかります。興行形態でいうと、最近まで「仕打(しうち)」がいた。昔は松竹で、松竹が手放してからは文楽協会ですが、つまりお金を出す人。それとプロデューサーの「奥役」、そして役者の棟梁(とうりょう)という「櫓下(やぐらした)」。この三種類の人が集まって芝居をつくっている。これは昔の歌舞伎がそうでしたが、文楽ではその伝統がきれいに残っているわけです。
それから義太夫の語り方に、詞(セリフ)・地または地合(メロディ)と、その中間の地イロと三つある。もともとはセリフだったのが、何かしら節がついて複雑になったのが地イロです。ここのところがおもしろいんですね。
一般に日本の芸能はそうなんですが、昔はわりとあっさりすませていたものが、色々なものを入れ込んで複雑にしてしまう。一つは新しい本が書かれないで、演出、演技ばかり長く続いたというせいもあるんでしょうけれど、どんどん上演時間が長くなって、知らない人が聞くと退屈なものになります。
もう一つ、文楽には「産(う)み字」ということがあります。「うちまもり」というところを〽︎うちィーイイイと引きのばすわけですね。そうすると、引きのばすことだけが、だんだん自己目的化する。たとえば「沼津」の「ここも名高き」のきの産み字は、イイイ……が五十三もの節に分かれていて、それが東海道五十三次を表すという。(笑)普通の客が聴いたら何がなんだかさっぱりわからない。しかし限られた客と演者との閉じられたサークルの中でだけは、たいへん珍重される。これも日本芸能の、面白い問題点ですね。
もう一つの特色は、なぜかまともが好きじゃないんですよ。お茶でも、わび、さびをいいますし、能でも分りにくい居曲(いぐせ)というものが生まれる。文楽でも、すね間(ま)といって、三味線のつくったメロディにのらない間をつくる。メロディをちょっとはずすところに良さを見いだす、というわけです。
木村 日本文化の特徴が、文楽にはよく表れていますね。よく日本は集団主義の国だといわれますけれど、本当に正しいとは言えませんね。ここに書いてある大夫と三味線弾きの関係はそんな生やさしいものじゃない。お互い自分の個性を力一杯出しながら、緊張の中で、しかも調和的に人間関係をまとめていこうとしている。この人は一回無げて語って、三味線弾きにえらく怒られたというんですが、互いにつきすぎず、かといって大きくはずれることもなく、調和の美を形づくっていく。ちょうどこの「鼎談書評」みたいなものだ……。

山崎・丸谷 アハハハ。

木村 もう一つは、いま山崎さんがおっしゃったように常間(じょうま)ではない、すね間というものが義太夫にあるという点ですね。これは西洋の考え方にはないことです。一見、非常に秩序よく全体が保たれているようでいて、その中に実に微妙な変化があって、これが日本の進歩、発展を支えている日本文化の特徴ですね。

丸谷 私もここが面白かった。常間はいまの言葉でいえばシンメトリカル、すね間はアシンメトリカルといったようなことだと思うんです。アシンメトリカルな美学は西洋にはありませんね。はずした感じ、そこに面白味が出て、綾がつく――ということがないんだなあ。
文楽の大夫は三味線を習ってはいけない、習うと「三味線に乗る」語り口になってしまう。長唄は常間でいくけれど、義太夫はすね間でゆく。そうしないと語り物にならない――私、いままで義太夫を聞いても何だかヘンな感じがしていたものが、この説明でピンと分ったような気がしました。
ただし、私は文楽に、あまり行きたいと思わないんです。その一番の理由は、町人たちが喧嘩する場面があるでしょう。あの大阪ことばのきたなさがやりきれなくてね、生理的な嫌悪を感じてしまう。

山崎 ああ、なるほど。東の方(かた)はそうでしょうね。

丸谷 いままでの江戸の芸事好きは、厭だと思いながら、文楽の権威に押されて、我慢してたんじゃないかしら。

山崎 NHKが朝の番組に大阪弁のドラマを流したら、東京の視聴者から電話があって、「朝っぱらから大阪弁を聞かせるな」といったとか、(笑)分るような気もするけれど……。(笑)
じつは文楽はシンフォニーではなく、ポリフォニーなんですね。義太夫と人形遣いと三味線の三つが並行している。西洋ならば、人形なら人形に意識の焦点を絞って、語り手や操り手は見せないでしょう。文楽では三者がばらばらでありながら、まとまっている。大阪の観客たちは、その点をいまでも無言で愉しんでいるんだと思います。

木村 ポリフォニーというのは、私もまったく同感ですね。掛合いの語りのところで〈目をつぶって相手と同じように心の中で語るようにしております。そうしないことには、そこで情愛が切れてしまいます〉とある。これはやはり日本の心ではないかと思います。相手の三味線弾きのいいたいことも、立場は違うけれど、ちゃんと分っている。同時に〈舞台の音というものは、意外にお客さんに吸われるものです。それですから、楽屋におりましても、「今日は入りがええな、わるいな」ということが、楽屋にありますマイクを聞いていましたら、すぐわかります〉と、お客のことも意識している。相手と自分と客と、それをいつも考えながら、一つの世界をつくっていく。まさに日本的な生き方の特徴が描かれているという気がしました。

山崎 難しい議論もさることながら、この本には、こんなことを書いていいのかな、という面白い打明け話もあります。
たとえば若かりし日の四世津大夫が語っている最中、相三味線の義父の鶴澤寛治が「ハンッ、ハンッ」という合いの手をいれてくる。実は文楽をごらんになるとわかるけど、これは時々あるんですよ。私は無知で、あれは三味線弾きがいい気持になって義太夫にあわせているんだと思っていたら、実は不満の表現で、お前の語りは間違ってる、ということらしいんですね。(笑)こんどから、あれを三味線弾きがやったら、あ、この義太夫語りは下手なのだ、と思うことにします。(笑)

文楽三代―竹本津大夫聞書 / 竹本 津大夫
文楽三代―竹本津大夫聞書
  • 著者:竹本 津大夫
  • 出版社:大阪書籍
  • 装丁:単行本(186ページ)
  • 発売日:1984-01-01
  • ISBN-10:475481035X
  • ISBN-13:978-4754810351

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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
三人で本を読む―鼎談書評 / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
三人で本を読む―鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • ISBN-10:4163395504
  • ISBN-13:978-4163395500

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文藝春秋

文藝春秋 1984年8月

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