古典が現代に息づく姿生き生きと
いつも思うのだが、日本語には、「わざ」(漢字では技、あるいは業を当てる、万葉では「和射」の表記も)、あるいは「技芸」、「芸術」、「芸能」などの熟語表現がある。例えば英語では、これらはすべて<arts>で済ませてしまう。だから日本語は優れている、などと言うつもりは毛頭ない。でも偶々(たまたま)この概念に日本語では、異なった意味の膨らみを持つ語が複数あるのは至極便利ではないか。本書はその「芸能」の歴史を、判りやすく、しかし、新しい動きも充分に取り入れて、解き明かした書である。一言留意を。ともすれば我々の社会空間では、芸術の方が高級であり、芸能と言えば一段落ちるもの、とされがちだが、芸術がそうであると考えられる、人間の魂の深奥に触れる働きを、芸能の中に容易に、見出すことができることを、学べるという点も本書の特長の一つかもしれない。著者は東西の演劇に関わる様々な仕事を重ねてきており、就中(なかんずく)能楽のプロデュース、新作能の支援などに、実績を残してきた。
著者は芸能の始まりを記紀の時代、神(や人)を楽しませる役割を演じる「わざをき」(漢字は後に「俳優」を当てる)に見る。誰でも岩戸隠れのアマテラスを引き出すために、面白おかしく踊ったアメノウズメを思い出すだろう。彼女は「女神」ではあるが、その後神楽や田楽などを誘導する源となった。ただ著者の筆はその後、イザナギ・イザナミの黄泉の国の「見たな」の件(くだり)から、ギリシャ神話のオルフェーオへ飛び、そこからモンテヴェルディのオペラが引き出される、というように自在な展開を随所に用意する。また大和言葉そのものの考察への展開も見せる。
本書は、大陸と半島から導入された雅楽、伎楽などへの言及を経て、猿楽・田楽を基礎とする能・狂言が語られる。そういう意味では、記述は一応歴史の時間を追う形になっているが、先述のように、題材を巡って、時間・空間の制限を超えて、記述は、縦横に走るので、読者も、歴史書を読むという自分の枠組みから、自らを引きはがすことが求められる。例えば、能で最も重要な演目「翁」が、能を主題とした章から外れて考察される、あるいは「羽衣」が半島の伎楽と結びつけて論じられる、などなど、これは、他書では、味わえない面白い体験である。
「翁」は、「能であって能でない」側面を配慮してか、田楽の項でもきちんと論じられ、その後能の項では、式能の順に、代表的な演目名を挙げ乍ら、過不足のない解説も用意されている。
その後、「近世への架け橋」、「中世から近世へ」というインテルメッツォ(しかし大切な)を経て、歌舞伎の世界が記述の舞台となるが、近松を論じた項は、とりわけ、著者の熱い想いが感じられて読者の心を打つ。ここでも大事な演目は名を挙げて充分な語りが用意される。当然文楽への眼差しも忘れられてはいない。
終わり近く、「隅田川」を巡って、ジョン・レノンらの名まで登場させながら展開される件も、胸底に触れる内容である。そして最終章「現代へ」では、川上音二郎や美空ひばりなどの名が引用されつつ、古典芸能が現代に生きる具体的な姿が紹介される。
読者は、時空を縦横に翔ける著者の筆の力で、類書にない体験をされるだろう。