書評

池田 満寿夫『私のピカソ 私のゴッホ』(中央公論新社)|丸谷 才一+木村 尚三郎+山崎 正和の読書鼎談

  • 2021/10/25
私のピカソ 私のゴッホ / 池田 満寿夫
私のピカソ 私のゴッホ
  • 著者:池田 満寿夫
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:ハードカバー(137ページ)
  • 発売日:1983-11-01
  • ISBN-10:4120012522
  • ISBN-13:978-4120012525
内容紹介:
ピカソ、ゴッホ、そしてモディリアニ。青年の日に深い衝撃と決定的な影響をうけ、今なお心を捉えて離さない天才たちの神話と芸術を、自らの青春と重ね合わせて描く白熱のエッセイ。

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丸谷 これは優秀な画家であり作家である池田満寿夫さんの書いた画家論です。ピカソとゴッホのほかにモディリアニが取り上げられていますが、語り口は大体同じですから、一番短いモディリアニ論を紹介しましょう。

モディリアニは裸婦をたくさん描いていますが、池田さんは、高校時代、はじめて裸体モデルを前にしたとき、極度の緊張感と激しい欲情で全身がふるえ、射精しそうになるのをこらえながら、モデルの下腹と陰毛を見つめていたそうです。しかし、画家はモデルを見ているが、モデルも画家を見ている。「モデルもまた興奮したり欲情したりするのである」と彼は断言します。

〈画家と裸体のモデルとが一対一である場合、しかもそれが密室の画家のアトリエである場合、エロティックな関係が生まれる可能性が大きいと考えるのは決して不自然ではない。裸体画に関する世間一般の“淫らな”とか“不謹慎な”とかの反応は、人々が描かれた裸体画だけからそう感ずるのではなく、(中略)裸のモデルと画家との密室の情景を想像するからに他ならない〉

だから……というと、おかしいかもしれないけれど、池田さんは高校以後、モデルは滅多に使っていないそうです。自分のアトリエでは、アメリカにいたとき一度だけ。妻や恋人をモデルにしたことはない。写真を利用して間に合せているといっています。

この、アトリエで裸婦を描くことが画家の心理に及ぼす作用については、誰だって関心があるはずですが、そんな幼稚なことは考えないという調子で、誰も書きませんでした。それを池田さんはあっけらかんと書く。あっけらかんと書いて、しかもその文章は上品な印象を与える。魅力がありますね、こういう男は。

マン・レイがモンパルナスきってのモデル、キキを初めて使ったときのことを打ちあけているそうです。マン・レイも学生時代から裸婦を「無心な画家の眼」で見ていたわけじゃなくて、キキのときもそうだった。キキは陰毛がなかった。描いているうちに邪念が起ってきたので着物を着るようにといって二人で外へ出てキャフェへ行ったそうです。

この陰毛の問題についての考察がまた面白い。ケネス・クラークは『ザ・ヌード』という本で、英語ではネイキッド(はだか)とヌード(裸体像)と二つあるといって――この本ではネックドと書いていますが、この発音は間違いで、ネイキッドが正しい――その区別を講義しているそうですが、池田さんはズバリとこう言うんですね。陰毛の描いてないのがヌードで、描き込まれてあれば、それはネイキッド。(笑)

陰毛が描かれはじめたのは十九世紀末からで、モディリアニは、この意味でのネイキッドを描いた画家です。それは従来の理想化された、女神のふりをした裸婦像への挑戦であって、つまり陰毛は反女神主義のしるしなんです。モディリアニはそういう女神でない女を好んで描いたのに、彼の反女神主義はいつも優雅な作品を生み出しました。

興味深いことに、彼は生涯でたった二点の絵でしか空を描かなかった、と池田さんはいってます。これは画家らしい実際的な指摘なんですけれども、モディリアニの描く女はいつも密室の中にいる。しかも群像ではなく、ほとんど一人だけの人物像です。つまり、一人のモデルと相対するだけでへとへとになるくらい緊張していたのだろうと池田さんはいってるんです。

こういう語り口の、ざっくばらんな美術論でして、ざっくばらんでありながら、美術の急所を教えてくれる、面白い本でした。

木村 この本は池田さんの青春画像だろうと思います。貧しくてろくに絵具も買えず、本物の名画に接する機会もなかった田舎の一人の少年が、にもかかわらず西欧の絵に憧れ、中でもピカソとゴッホとモディリアニに共感していく。つまりそれらの画家を通して自己表出をしているというふうに読みました。ピカソについて、

〈子供のような優しいところと、疑い深く小心で、嫉妬深く、金銭にケチで、見栄坊で……自信家で、しかし恐しく自分の才能や健康を不安がり、女好きだがあきっぽく……ダンディかと思うと無頓着で、絵ばかり描いている男〉

と表現しているんですけれど、これはかなりの部分、池田満寿夫そのものではないか。彼は奥さんが浮気するんじゃないかと、いつも心配してる。先日、御本人がテレビでいっていました。(笑)

〈モディリアニのスタイルは理論的必然性から発展してつくりあげたものではない。それはあくまで個性の力と嗜好(しこう)によって、いわば一種の即興力と感覚で出来たものだ〉

このへんも、実は自分を語っているのだと思いますね。

山崎 「自分史」という言葉が最近あるんだそうです。ごく普通の人たちが、自分の体験したことを文章にして、大抵は自費出版という格好で世に問うというのが流行しているんですね。

一九七〇年代以降の日本は、個人が一人一人になっていくという傾向がみられる。これまで集団化社会の中で生きてきた日本人ですが、寿命が長くなったとか、職場にいる時間が短くなったとか、いろんな事情から、自分というものに帰っていく、そういう時代がきている。「自分史」はその現れなんですね。

「自分史」と従来の「自伝」とには、一つのはっきりした違いがあるような気がします。「自伝」は、自分が何になったか、いかにして自分を形成したかということに大きな眼目があるわけです。ところが「自分史」のほうは、自分が何を体験したかということが大切で、その結果、自分が何になったかということはどうでもよい。

池田さんのこの本は、プロが書いた自分史だという気がしました。たしかにピカソやゴッホに共感していく過程が生々しく、正直に書かれてあります。しかしいくら読んでも、池田さんがピカソを見て、自分の作風がどう変ったか、発展したかということは一切書いてない。彼はいろいろ体験したけれど、体験によって何になったかは書いてないんです。これは自伝ではなく自分史ですね。

木村 どうしようもないことを書いているところがありますね。

モディリアニについて何を書いていいかわからなくて、日本間の掘ゴタツに坐って前方の障子を見ている。盛りソバ二枚食べ、コーヒーを数杯飲んで、さあどうしようってことを、そのまま書いてゆく。この文章のなかで彼が言いたいことはただ一つ、モディリアニという人は“精液をモンパルナス中にまきちらした男”だと。(笑)これはまさに自分史の感覚ですね。

丸谷 ただし、無内容なその文章がキラキラ光ってるんですよ。それはいわゆる自分史の筆者たちの益体(やくたい)もない文章とはまったく違う。

山崎 これは画家でなければ書けないなというところがいくつかあります。たとえばゴッホについて。普通、評論家たちはゴッホの狂気を問題にし、文明を語る。

しかし、池田さんは、ゴッホは職人的にうまい絵具の使い方をしたので、いまだにゴッホの絵はひびも入らず、かびもはえないで保存がいい、と書いている。これには敬服しましたね。

丸谷 あれはすごいね。

山崎 ただしケチをつけると、所どころどうかと思うようなことが書いてある。〈ピカソはフォルムにおいて、マチスは色彩において偉大であった〉。こんなのは教科書的美術評論家がいうことで、マチスは実に立派なフォルムをもった画家です。池田さんほどの人が、うっかりこういうことを書くと、流す害毒がいささか大きい。

丸谷 僕がさっき陰毛の話をしたのは、文春の読者がかならずや喜ぶだろうと思って紹介したんですが、(笑)ああいうことはこれまであまり論じられたことがないと思うんです。おそらく不謹慎だと非難されないためでしょう。ところが池田満寿夫は平気で論じる、それを読むと不謹慎という感じは全然しない。僕はさっき「上品」といったけれど、むしろ、品などというつまらない概念のない世界にわれわれは誘いこまれてしまう。

木村 ある雑誌のアンケートに「一番気持のいいもの――セックス」と、堂々と答えてますね、この方は。(笑)ケレン味がないんですね。

山崎 あえて正論を言えば、モディリアニの裸体描写が猥褻だというのは褒めすぎだと思います。猥褻ならルーベンスのほうがずっとすごい。

私がこの本を自分史だといったのは、彼が、青春のある時点においてモディリアニを見て大変欲情した。それは嘘いつわりのない事実である。しかし、客観的にモディリアニがそうだったかというとこれは問題がある。

丸谷 要するに、これは「私の画家論」ということでしょう。それで「私の」というところにアクセントがかかっているんですね。三人の画家を論じてあるけれども、四人目の画家である池田満寿夫が一番大事なんだ。(笑)

山崎 「ピカソの呪術的フォルム」「マチスの色彩」「モディリアニの熱情」「ゴッホの波打つような形態と激しい色彩」……この中に書かれていないことが一つある。それは線です。ところで池田満寿夫という人は、私の見るところ、まさに線の画家なんです。だから遂に自分のことだけは隠して語らなかった。

丸谷 もっというと、池田満寿夫はいままで油絵を描いてない。ところがこの本では三人の油絵画家のことを書いていて、版画家も水彩画家も論じていない。自分についてこういうふうに語る語り方もあるってことですね。

木村 印刷技術の悪いピカソの複製と、のちに見た実物の違いにびっくりしたという話が私には印象的でした。複製によって心の中ではぐくんできたピカソこそ、著者の原動力だったわけですが、考えると日本の近代文化というのは、おしなべてそうなんですね。いわば「心の中のヨーロッパ」が憧れとしてあった。最近は実物を見られるようになって「あっ、ヨーロッパもダメになった」といってる。(笑)その、実物が見られるようになった時代が幸せかどうか問題だということは、この本からもよくわかります。

山崎 逆にヨーロッパ人が浮世絵を見て印象派を作ったというけれど、日本の全体像は全然見ていなかった。ギリシャ文明を見てルネサンスを興したというけれども、ルネサンス人が見たのは白亜大理石のギリシャで、本来のけばけばしく塗りたくったギリシャではなかった。むしろ創造というのは、つねに幻想と錯覚からおこるんですよ。

木村 そう。日々一緒にいてさえ、相手を理解しないものがいる。女房がそうだ。(笑)

山崎 なんだかきょうは、木村さん、危険な話ばかりだなあ。(笑)

丸谷 もう一度、話を『結婚の起源』に戻しますか?(笑)

私のピカソ 私のゴッホ / 池田 満寿夫
私のピカソ 私のゴッホ
  • 著者:池田 満寿夫
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:ハードカバー(137ページ)
  • 発売日:1983-11-01
  • ISBN-10:4120012522
  • ISBN-13:978-4120012525
内容紹介:
ピカソ、ゴッホ、そしてモディリアニ。青年の日に深い衝撃と決定的な影響をうけ、今なお心を捉えて離さない天才たちの神話と芸術を、自らの青春と重ね合わせて描く白熱のエッセイ。

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【この書評が収録されている書籍】
三人で本を読む―鼎談書評 / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
三人で本を読む―鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • ISBN-10:4163395504
  • ISBN-13:978-4163395500

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文藝春秋

文藝春秋 1984年3月

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