自著解説

『キュビスム芸術史―20世紀西洋美術と新しい〈現実〉―』(名古屋大学出版会)

  • 2019/03/15
キュビスム芸術史―20世紀西洋美術と新しい〈現実〉― / 松井 裕美
キュビスム芸術史―20世紀西洋美術と新しい〈現実〉―
  • 著者:松井 裕美
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(692ページ)
  • 発売日:2019-02-28
  • ISBN:4815809372
内容紹介:
造形・理論における多面的かつ国際的な展開を、「幾何学」的表現の誕生・深化から、第二次大戦後の歴史化まで描ききる挑戦的通史。
国立西洋美術館開館60周年記念「ル・コルビュジエ展」が開催され、話題となっています。建築だけではなく、絵画や彫刻など、キュビスムを代表する芸術家たちからの影響も見どころのひとつです。20世紀最大の芸術運動とも言われるキュビスムについて、日本語でまとめて読むことのできる本は意外にも多くありません。このたび、その曲折に満ちた歴史を描ききる、挑戦的な大作『キュビスム芸術史』がついに刊行! 著者・松井裕美氏による自著紹介「キュビスムと複数の〈現実〉」を特別公開いたします。

キュビスムと複数の〈現実〉

20世紀フランスの前衛美術運動であるキュビスムを創出したことで知られるパブロ・ピカソは、彼の画商D・H・カーンワイラーとの対談のなかで、次のような言葉を残している。

バルザックの『知られざる傑作』のフレノフェールの作品が素晴らしい点、それは、ついには彼以外の誰にも、[その絵画作品のうちに]何も見なくなってしまうことだ。現実を探そうとして、フレノフェールは暗闇にたどり着く。あまりにも多くの現実があるので、それらをすべて見えるようにすれば、ついには不明瞭な暗闇で終わるのだ。

バルザックの小説に登場する画家フレノフェールは、《美しき諍い女》と題された絵画を完成させようと長年苦しみ、最後には一面の絵の具の塊で覆われたカンヴァスに女性の脚の一部のみを描いた作品を残すことになる。この小説に登場する二人の画家、プッサンとポルビュスは、鬼才の描いたこの絵画を前にして戸惑いを隠せない。だが小説の読者はここで必ず問うに違いない。いったいそれはどのような作品だったのか。

何が描かれているのか?

ピカソはフレノフェールの姿に自らを重ね合わせた芸術家であった。したがってフレノフェールによる「不明瞭な暗闇」の絵画のなかに、ピカソが自らの創出したキュビスムを見出していたとしても不思議はない。難解なキュビスム作品を前にして、私自身も小説の登場人物たちと同様、長らく戸惑いを隠せなかった。なぜならそれは単なる絵の具の塊ではなく、何かしら現実のモチーフを表現したものであることが明らかなのに、そこに刻まれた線や、謎めいた陰影表現の一つ一つがいったい何を意味しているのか理解する手がかりがなかなか得られなかったからである。もし本当にそこにあるものが絵の具の塊だけであったなら、色彩の調和や筆さばきの躍動に酔いしれることもできよう。けれどもフレノフェールの作品に足が描かれていたように、ピカソのキュビスム作品には難解な表現のなかにも判別可能なイメージが浮かび上がっている。結果、作品を見る者は、そこに何かあるものが示唆されているのに、その全体は決して理解できないという宙吊り状態に置かれる。それは、描かれたものが何かを「知る」ことはできるのに、それをそのものとして「見る」ことができないような状況でもある。

『キュビスム芸術史』の挑戦

『キュビスム芸術史-20世紀西洋美術と新しい〈現実〉』の第一の挑戦とは、まさにこの個人的な戸惑いの経験に正面から向き合うことのなかにあった。そして戸惑いの要因を理解するためには、新しい作品解釈や未刊行の資料読解にもとづき、キュビスムの実験についての独自の新知見を示す必要があった。

なかでもこの研究の端緒をなす重要な発見であったのは、キュビスムの実験が、解剖学図像をはじめとする現実構造の図式的表現と非常に密接に結びついていたという事実である。この発見をきっかけとして、ピカソだけでなくピュトー派の芸術家も含めたキュビスム作品を科学技術の描出技法との関連から分析することに取り組んだ。このことにより、キュビスムという運動が「見る」という作業の慣習的な過程を問いに付し、さらには対象について「知る」というより深い認識の構造の理解に迫ろうとするものだったことが徐々に明らかとなった(第I部)。だからこそ、キュビスムの作品に描かれたものが何かを知ることは可能なのに、通常絵を見るやり方でキュビスム作品を「見る」ことはできないという事態が生じるのだ。

こうして次のようなキュビスムの核心が明らかとなった。すなわちそれは、現実と虚構、現在と過去、イメージとテクストをつなぐ場としての表象空間を構築し、その構築のプロセスまでも完成作品のなかに示す芸術なのであり、現実という概念をめぐって異なる次元で試みられた数々の実験が出会うようなダイアグラムとしての表象空間であったのだ。キュビスムの実験とはまさに、現実に存在する事物とそこから抽出された幾何学的なモデル、そしてそれらに類比可能なさまざまな事物とを、ときに近づけときに離し、また並置することをとおして、視覚的に示されたかたちに意味を与えたり剥奪したりする試みだったのであり、さらにはそうした試みにおける知性と直観、本能の働きについて考えることにほかならなかった。本書では作品分析から得たこのような仮説を、キュビスムと文学との関係についての考察により別の角度から立証することも試みた(第II部)。

キュビスムを越えて

本書の第二の目的は、キュビスムを発端とし構築された様々な歴史観と理論のダイナミズムを理解することであった。それは必ずしもキュビスムを支持する運動のみから生まれただけではなく、キュビスムを乗り越えようとしたオザンファンやル・コルビュジエのような芸術家たちにおいても認められる傾向であった(第III、IV、V部)。実のところ、キュビスムは様々な抽象芸術の起源として語られるようになったが、キュビスムのどのような部分が、どのような人々によってどのように解釈されてきたのかということは十分に明らかにされていなかった。そこで、例えば「抽象」や「時間」、「古典」、「フランス美術」といった言葉が各々の時期において美術批評や美術史の言説においてどのような意味を持ち得たのかを確認しながら、キュビスムが当時の美術史や形式主義的批評、ナショナリズムの言説のなかでどのように論じられていたのかを分析した。そのなかでもとりわけ注目したのが「現実」という言葉である。この言葉は、「概念の現実」といった使用例のように、目には見えない頭の中で思い描いた現実のことをも意味し、場所によって色を変えるカメレオンのような性質を持っていたのである。実際キュビスムは、日常生活の事物から数学的に解釈された抽象的世界、絵の具の塊、戦争や社会問題、公共空間に至るまで、多様なレヴェルの「現実」と関連づけて論じられた。増殖する「現実」概念とキュビスムとの関係性は、ユートピア思想とも交叉することになる。

こうした研究成果をまとめた本書は、これまで描かれてきたような直線的な歴史観を覆す試みのうちに書かれたものであり、試行錯誤を繰り返しながらジグザグの線をたどり発展したキュビスムと、どこまでも増殖する「現実」概念とが織りなす万華鏡のような世界の一端を明らかにしようとするものである。

ピカソによれば、フレノフェールの絵画がたどり着いた「不明瞭な暗闇」は「あまりにも多くの現実」を「すべて見えるようにした」から生まれた。だがピカソはそれを「素晴らしい」と捉えた。「現実」とは、私たちが普段考えているよりもはるかに複雑で混沌としており、矛盾に満ちている。キュビスムの作品と、それを取り巻く言説は、まさにそのことを私たちに教えてくれているのだ。キュビスムが私たちに投げかける謎めいた魅力を解き明かすスリリングな喜びを、読者の方々と共有できれば幸いである。

[書き手]松井裕美(神戸大学大学院国際文化学研究科・フランス近現代美術)
キュビスム芸術史―20世紀西洋美術と新しい〈現実〉― / 松井 裕美
キュビスム芸術史―20世紀西洋美術と新しい〈現実〉―
  • 著者:松井 裕美
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(692ページ)
  • 発売日:2019-02-28
  • ISBN:4815809372
内容紹介:
造形・理論における多面的かつ国際的な展開を、「幾何学」的表現の誕生・深化から、第二次大戦後の歴史化まで描ききる挑戦的通史。

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ALL REVIEWS 2019年3月15日

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