後書き

『現代アート入門』(名古屋大学出版会)

  • 2021/01/07
現代アート入門 / デイヴィッド・コッティントン
現代アート入門
  • 著者:デイヴィッド・コッティントン
  • 翻訳:松井 裕美
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(224ページ)
  • 発売日:2020-12-17
  • ISBN-10:4815810095
  • ISBN-13:978-4815810092
内容紹介:
「なぜこれがアートなの?」と疑問を抱くすべての人に――。注目を集めると同時に、当惑や批判を巻き起こし続ける現代アート。私たちは何を経験しているのか。それはどこから生まれ、どのように展開してきたのか。「モダン」な社会や制度、メディアとの関係から現代美術の挑戦を読み解く最良の入門書。
オックスフォード大学出版局から刊行されている定番の入門書シリーズ「Very Short Introductions」の中から、このたび『現代アート入門』が日本語に翻訳されました。刊行以来多くの人に読まれ続けてきた本書は、どのような点が高く評価されているのでしょうか。訳者は『キュビスム芸術史』で和辻哲郎文化賞を最年少受賞した松井裕美氏。その訳者あとがきから、本書の特色をご紹介します。

なぜこれがアートなの?「知る」だけでなく「問いを立てる」ための格好の入門書

本書は、David Cottington, Modern Art: A Very Short Introduction(Oxford University Press, 2005)の邦訳である。著者のデイヴィッド・コッティントンは、20世紀前半の前衛美術、とりわけキュビスム研究の第一人者であり、現在はイギリスのキングストン大学の名誉教授である。

本書で使用されている「モダン・アート」という語は、実のところ西洋美術史において様々な芸術を意味する。それは本書でも述べられているように、「モダン」という時代がいつ始まり、いつ終焉したのか(あるいはまだ存続しているのか)という問いそのものと関わっているからだ。極端な場合は「中世」が終わると「近代」に移行する、と考える場合もあるし、産業革命や啓蒙主義の興隆、フランス革命を経た18世紀・19世紀以降の美術を指す場合もある。また「近い過去」の芸術の呼称として用いられる場合もあれば、本書後半であらためて議論されるように、「コンテンポラリー・アート」を含む近現代美術の総称として使用されることもある。

実際、「モダン・アート」の入門書として書かれた本書で扱われる芸術の射程は、きわめて広い。19世紀のエドゥアール・マネから今日活躍中のトレイシー・エミンといった芸術家まで、多様な運動・作品が論じられている。これらの作品を論じるなかで浮き彫りになるのが、著者が長年の研究において投げかけてきた前衛芸術についての考察である。著者が博士論文にもとづき出版した最初の単著『キュビスムと戦争の影』(Yale University Press, 1998)は、キュビスムという前衛運動における古典主義的・ナショナリズム的側面を明らかにした点で、クリストファー・グリーン[美術史家]の研究から多大な影響を受けつつも、前衛芸術を進歩史観から捉える従来の理解を塗り替えるような、多くの新たな示唆をもたらすものだった。こうした姿勢は、前衛芸術を一枚岩の理念として捉える理解に対して彼がとった距離としても表れている。彼は、前衛が様々な社会的要因の介入により変容してきた歴史的な産物であり、それゆえそこには多様性や矛盾、そして混成性が含まれていると一貫して主張する。つまり、芸術は自律して発展するものではなく、周囲の社会や環境との相互関係のなかで築かれるものであり、モダン・アートの理念として誕生した「前衛」すらその例外ではないということだ。

芸術と社会との関係に着目する研究手法について、彼は前述のグリーン以外にも、次に挙げる二つの研究に多くを負っている。一つはホワイト夫妻が1965年に出版し、その後何度も版を重ね、近代美術史の必読書となった『カンヴァスからキャリアへ』である。本書の文献解題ではホワイト夫妻の著書は紹介されていないものの、「かつては完成されたカンヴァス[……]が市場の注目を集めていたのに、やがて芸術家のキャリアそのものへと関心が向けられるようになった」(8頁)という本書の記述は、夫妻の『カンヴァスからキャリアへ』へのオマージュとなっている。もう一つは、文献解題でも紹介されている、T・J・クラークによる19世紀絵画研究である。クラークの研究は、クールベやマネのエポック・メイキングな作品の意味や革新的表現を、様式的に分析することによってのみ捉えるのではなく、それを見ていた観客や、そうした観客を生み出していた制度・社会との関係性からも理解するものだった。なぜ特定の作品がスキャンダルを引き起こしたのか、なぜそれが「掟破り」なものとして騒がれたり拒否されたりしたのか、そのことを読み解いていくと、より一層当時の規範、すなわち「掟」が浮き彫りになるのである。本書が現代アートに対する観衆の嘲笑や無理解にもきわめて冷静に分析的な眼差しを投げかけているのも、クラークのこうした方法論を受け継いでいるからにほかならない。

このために本書は、様式の歴史的な移り変わりを知るための概説書でも、個々の芸術家の伝記的なアンソロジーでもなく(『現代アート入門』という邦題からはどちらかというとこうした内容を期待されるかもしれないのだが)、現代アートがどのように社会と関わってきたのか、それが社会においてどのような位置を占め、どのような意味を持つのかを問うための入門書である。つまり本書は、概要を「知る」だけの入門書ではなく、知識から出発しながら「問いを立てる」ための入門書でもあるのだ。なお、本書を読み進めるにあたって20世紀美術の専門用語については補足説明が必要な読者もあろうかと、簡単な用語解説を巻末に添えた。用語解説を通して20世紀美術史の簡単な流れを追うこともできるので、各々の関心に合わせて適宜ご参照いただければ幸いである。

さて、「問いを立てる」ためには既知を疑い、普段何気なく感じている「好き嫌い」から一旦距離を置く必要がある。だが一般のアート・ファンからアーティストまで、美術の初学者から美術家・美術史家まで、現代アートの価値を確信する者から、それへと懐疑の眼差しを向ける者まで、人それぞれに知識も趣味も習慣も異なり、それによって問いの出発点も様々である。本書の特色は、そのような多様な読者にもどこかしら共感し得る見解を紹介している点である。現代アートを茶番だとする否定的な見解にしても、前述したように単なる無理解として切って捨てることはない。一般大衆と文化業界の人々との見解の相違と、両者の乖離から議論を始めつつ、双方が見落としていた論点についても目を配っている。

したがって著者は、例えばトレイシー・エミンのセレブとしての振る舞いに対して向けられた批判のように、現代アートに対するきわめて辛辣な見解をも紹介していたとしても、決して現代アートを貶めようとしているわけではないし、逆に批判する者を無理解の名の下に侮蔑しているわけでもないのだ。そうではなく、相対化された歴史的観点から、現代アートについての言説を構成している諸要因を見極めようとしているのである。賛否両論、どちらから切り込んでも構わない。だが読者がそのどちらから出発するにせよ、その反対の意見にも歴史的な起源があり、社会的ないしは政治的な要因と動機づけがあることが、本書をとおして徐々に明らかにされる。「周縁(マージナル)」と「メインストリーム」、「天才」と「著名性」、「男性(性)」と「女性(性)」、制度に抗う反骨精神と新たに整備された近代美術館の制度との結託、「西洋」と「非西洋」、内省的な形式に宿る純粋性と大衆文化をも取り込むハイブリッド性、モダニズム的な「本質主義」とポストモダニズム的な「相対主義」、そうした概念のペアリングのなかで、結びつきと対立、矛盾と総合の歴史が紡ぎ出されていく。そこから次第に、対立する項目のどちらかのみに立っていては見通すことのできない、19・20世紀の芸術が抱えてきた両義性をめぐる問いの地平が浮かび上がる。もちろんそこから導き出されるのは、示された様々な見解のどれが正しいのか、という問いではない。そうではなく、本書でも繰り返し出てくる「オルタナティヴ」としてのそれぞれの項目が、芸術家と作品制作、観客、そして美術制度において、どのようなリズムとダイナミズムで配置されていくのかを、歴史の流れのなかで問おうとしているのである。

そして彼が本書の最後に投げかけた問い、すなわち私たちは芸術に癒しを求めるのか批判的思考を求めるのかという問い、それは私たち読者に向けられた挑戦でもあるように思われる。彼が読者に求めるのは、モダン・アートが生み出してきた多くの矛盾についての知識と問いとをたずさえたうえで、現代アートに向き合うことである。それは決して「見たまま、感じたままを楽しむ」ような鑑賞のあり方ではない。その根底には、芸術の定義について問い、芸術作品と制度の背景にある社会の様々な問題について考察することを求める著者の姿勢がある。読者にとって、本書がそのような鑑賞と考察の「入門」になることを願っている。

[書き手]松井裕美(1985年生まれ、神戸大学大学院国際文化学研究科准教授。専門は近現代フランス美術史。著書『キュビスム芸術史』で和辻哲郎文化賞を受賞)
現代アート入門 / デイヴィッド・コッティントン
現代アート入門
  • 著者:デイヴィッド・コッティントン
  • 翻訳:松井 裕美
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(224ページ)
  • 発売日:2020-12-17
  • ISBN-10:4815810095
  • ISBN-13:978-4815810092
内容紹介:
「なぜこれがアートなの?」と疑問を抱くすべての人に――。注目を集めると同時に、当惑や批判を巻き起こし続ける現代アート。私たちは何を経験しているのか。それはどこから生まれ、どのように展開してきたのか。「モダン」な社会や制度、メディアとの関係から現代美術の挑戦を読み解く最良の入門書。

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