解説
『クサマトリックス/草間弥生』(角川書店)
陶酔と戦慄
昔。海の近くのスタジオでレコーディングをしていて、どうもうまくいかないので気分転換をしようとドラマーと連れだって海岸までぶらぶら歩いていったことがある。海岸には悪い雑草が生えており、またところどころにごつごつした岩があらわれて、空は鉛色だし冷たい風は吹いてるし陰気なことこのうえなく、ちっとも気分転換にならない。ドラマーと私は岩のところにしゃがみこみ陰気に黙りこくっていた。あまり遠くをみると茫漠とした海と空が広がっているばかりで気がおかしくなりそうだったので俯いてすぐ足元、岩と砂の間の取り残されたような水たまりをのぞきこむうち、半ば水に漬かった岩肌に、なんだか分からない貝みたいなフジツボみたいな小さくて黒いつぶつぶがびっしりこびりついているのに気がついて目が離せなくなった。じっとみていると脇にいたドラマーが、「帰ろう」と言うので顔を上げると彼はまっ青な、猿が二日酔いになったような顔をしていて、まあ彼はもともと猿に酷似した顔をしていたのでしょうがないのだけれども気分が悪そうなのには変わりなく、心配だったので、「どうしたのだ」と尋ねると、実は彼も私と同じく、貝みたいなフジツボみたいな小さなつぶつぶを凝視して、そうしているうちになんだか怖ろしくなり気分が悪くなったのだという。
私は同じつぶつぶをみて、恐怖というよりはどちらかというと愉楽のようなものを感じていて、では彼の恐怖を理解しなかったかというとそんなことはなく、その愉楽の感覚のなかにはまさにドラマーの感じていた戦慄の感覚があったのであり、また彼もただ戦慄したのではなく、その恐怖のなかに多分に愉楽の感覚が含まれており、だからこそすぐに目を背けないでつぶつぶを凝視し続けたのに違いない。
この文章を書くために草間彌生に関するたくさんの資料を読み、草間彌生の驚嘆すべき作品に触れたとき人は右(事務局注:上)に書いたような陶酔と戦慄の入り混じった感覚をより増幅したような感覚に襲われるのではないだろうかと想像した。
無限・無窮というのは生命に限りがある人間には想像しにくいあり様である。
無限・無窮は別の言い方で言うと永遠ということで、しかしひとりの人間は永遠には存在しない。だからこそ人間は戦慄しつつも無限・無窮、永遠の存在に憧れ、偶然、その神秘の一端に触れた際は、どのようにあがいてもこれから目を背けることができぬのであろう。
草間彌生の芸術に触れるということはおそらくそのような体験に似て、我々は我々の意識や生命が粉々になり、最小の単位となって永遠の一端に配置せられることである。或いはそうして粉々になって永遠の一端に配置せられたる命が、まったく別のなにかに創造され、その創造された別のなにかとしての意識をもう一度生きることであって、そのようなことは日常においてはまったく考えもつかぬことであるが、そのような感覚を現出せしめた草間彌生の奇跡的な芸術に触れるときこそ、人間は真に生きていると言えるのではないかと思った。
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