苦しみと喜びの決算
先日、いつもながらアホーな文章を書いていて不幸な人のことを具体的に描く必要があって、人間の不幸の具体例について考えたのだけれどもあまりちゃんと考えられなかったのは、それが不幸なのかどうかは当人にしかわからないのかも知れないと思うからで、いくら傍の人間が、おまえは不幸やのう、と同情しても当人が不幸と感じていなければ、それは不幸ではない。じゃあ、当人が不幸と言えば不幸なのかというと、その自己申告もあまり当てにならないように思う。
「いやあ、もう二十年間、宝くじを買い続けてるけど一回も当たったことないんですよ。僕ほど不幸な人間はおらんでしょう」
なんてなのは不幸でもなんでもない、ただの不運である。というか、そんな人は大勢いるから、不運ですらない、当たり前の人生の状態である。
「いやあ、僕、不幸なんですよ」
「なんで」
「嫁はん、むっちゃ不細工なんですよ」
なんてなのも、当然の話ではあるが不幸ではない。割れ鍋に綴じ蓋、お互い様である。
という訳で私は不幸の具体例を考えられなかったのだが、なんでそんなことになったかというと、理由がふたつある。ひとつは私の頭脳が若干、残念な頭脳であるという点であるが、それはまあ、この場で追求しても仕方がないのでとりあえず措いて、じゃあ、もうひとつはなにかというと、不幸という言葉が、幸でない、という意味であるということで、もしいまここに幸がなければ不幸もなく、不幸は幸の存在を前提としてあるのである。
例えば、嫁はん、むっちゃ不細工なんですよ、という言説は、一般的に嫁はんは別嬪である、という前提があって初めて成立する。しかし、現実がそうでないのは御存知の通りで、実はその議論をさらに進めると不細工というものも存在しなくなる。
これを別の例で言うと、ときどき、いろんな現場で偉そうなおっさんが、「不愉快だ。帰るっ」など言い、怒って帰ろうとすることがあるが、じゃあ、その偉そうなおっさんはキホン、愉快にしているのだろうか、いつもニコニコ笑って、時折は花笠音頭や河内音頭を歌って皆を楽しませたり、カードマジックを披露するなどして、というとそんなことはまったくなくて、いつもへの字口で不機嫌にしているのである。
そのように考えると不幸が成立するためには多くの人間、それが九割とは言わぬがマア、過半数の人間が幸福に暮らしている、という前提が必要になってくるのだけれども、実際面で言うと、そんなことはないように思う。
それじゃあ幸福とはなにか。という話になるのだけれども、それを言い出すと長くなるのでいまは言わぬが、とにかく、不幸というものは私の調べたところ、この世にはない。なので自分のことを、不幸だ、と自ら言う人は間違っている。
と言うとなにも問題がないように聞こえるがそうでないのは、人間は、不幸がないとしても生きていると生きる喜びを感じると同時に、苦しみや悲しみ痛みを、どうしても感じてしまうからである。
というのは例えばあまり詳しくないのだけれども会計における貸借対照表に似ているのかも知れない。すなわち、歓び、という資産の反対側に苦しみ・悲しみ・痛み、という負債があり、それは常に均しい、という考え方である。
そして会計年度ごとに決算ということを行わなければならない。では生き変わり死に変わりする命の決算とはどういうことだろうか、そう、死ぬことである。
ところが、はいはい。決算ですね。やりましょ、やりましょ。となれないのは、人間には死を極度に恐れる習性があるからである。
というか、その前にバランスシートにおける負債の部のもっとも数字が大きい項目は、死、である。
と、考えると資産の部、すなわち、歓び・生きる喜び、みたいなものを増やさないとバランスしない。そのためにみんなで考えて出来たのが、国家と宗教、と私なんかパンクロッカーながら愚考する。
しかし、国家と宗教というものは理論値で言うと生来相性が悪いはずで、なんとなれば、国家が資産を増やそうとするときの負債に宗教は批判的な観点で着目し、宗教がその全体を縮小しようとして働くとき、国家はそれを阻止しようとするからである。
ということは、市民社会の側から、宗教についてカルトだとか、反社会的だ、と批判する場合がときおりあるが、そんなことは当たり前の話で、国民の富を増やそうとすると死の恐怖が増大する、死の恐怖を減らそうとすると現世・俗世での喜びが減る、というジレンマがある限り、宗教というものはそもそも反社会的であるからである。
つまり簡単に言うと、此岸にいる限り彼岸には参れないし、穢土で楽しむ者は浄土に楽しめない。神の國では先の者が後になり後の者が先になる、という寸法である。
なんてなことを考えたのは中村文則の、『教団X』を読んだからで、この小説は、そうした宗教のことをド正面から描いた小説である。
小説の中核にあるのは仏教、それも後に発展し、現世と一定程度、妥協して、或いは、現世のその前提も考慮して成り立ち、発展した後の仏教ではなく、原始仏教を小説の中心に据えてある。
というと辛気くさい小説のように聞こえるが、そんなことはなく、そうした仏教の理窟を理窟としてそのまま語るのではなく、小説の筋の中に組み込み、人間と社会がどのようにして苦しみと喜びの総量を拡大し、どのようにして決算するか、ということを人の、そして社会の振る舞いとして描いてあるので極度に面白く、こうした小説を読む場合、よくよくその文章を味わって読まなければならないのだが、私ナンど、筋に引っ張られて、この弁当箱のような本を二日で読み切ってしまった。
私たちが邪だと頭から考えて、考えの前提から除去して掛かっているような考えにまで小説はぶっ飛んでいって、滅びる者と存続する者のどちらが善か悪か、正か邪か、というようなことがこの小説を読むとわからなくなってたいへん気分がよい。
私はこの本があまりにもおもしろいので余のことをすべて放擲して読み耽った。がために、私個人の負債=苦しみが増大した。しかし、それは読書の喜びと均衡しているのでなんの問題もない。死ねばすべてが帳消しである。また、そのために不幸になったと主張する人もいるかも知れないが申し上げた通り、この世に不幸は存在しない。ただ粒になって流れていくだけだ。なんて考えにどうしてもこの本を読むとなってしまうので注意が肝要である。