天上しか見ない詩人が地下を見るとき
先日、連詩の会、という催しに参加させていただき、詩人の方々と4日間を過ごした。5人で五行詩と三行詩を順番に書いて、全体がひとつの連なりとなる40編の詩を書いたのである。4日で40編だから1日10編拵(こしら)えればよいという計算になるが、最終日は発表会なので実質3日で40編の詩を書いた。それが速いのか遅いのか私にはわからないが、5回に1回、順番が回ってくる間は純然たる待ち時間で、その待ち時間になにをしているのかというと、雑談をしていた。ひとりの人が白紙を前に鉛筆を握りしめ苦吟をしている間、他の4人は雑談を楽しんでいるのである。
といって、「こないだ競艇に行ったらボロ負けしましたわ」とか、「巣鴨にええピンサロあんで」或(ある)いは、「やっぱクルーゼよりストウブの方が使い勝手いいわよ」とか、「おもろい手品、教えたろか」といったようなバカな話はしない。
じゃあ、なんの話をしているのかというと、もちろん詩の話、文学の話で、さんざん言葉について考え、やっと書いた後もまだ言葉の話をしているのであり、普通の職場、例えばネジ工場かなんかで、昼の休憩時にネジの歴史、人類にとってネジとはなにか、今日におけるネジの社会的文化的意味、なんて話をすれば絶対に、「やめてくれー」と言われるが、その場所ではそうでなく、みんな喜んでそんな話をしていた。
そんななか強く印象に残ったのはひとりの詩人の言った言葉で、その詩人が歌人と話をしていたところ、歌人は詩人に、「歌人は地上を見ていますが詩人は天上しか見ていませんからねえ」と言ったという。そして詩人は言った。
「まったくその通りなんですよ」
このとき私は長いことわからなかったこと、すなわち、なぜ自分が大抵の詩のムードや気配に乗れないのか、その文字の連なりを見ただけで鼻白んでしまうのかがわかったような気がし、同時に、なぜ古来より詩人が尊敬されるのかもわかったような気がした。
地上にいる人間に天上のことは書けない。天上のことを書けるのは天上に住んでいるか、天上にしょっちゅう行く、昨日も天上に行ってましたみたいな人、最低でも1回は天上に行ったことがある人だけだ。しかし、そんな人はおいそれとはいない。だから尊敬される。
諦めを荒業で希望に
じゃあ一般の人間は詩が書けないのか、というとそう、書けない。にもかかわらず書いたらどうなるのかというと、「天上、やばい。天上、マジハンパねぇ」という天上の空疎な賛美になる。もっとも具合が悪いのは、天上に行ったことがないのに、さも天上を識(し)っているかのような口ぶりで、天上人ぶっていろんなことを喚(わめ)き散らす詩で私が読む前から鼻白んでしまうのはこの型の詩である。しかし、その詩人の言葉を聞いてからは以前は判然としなかった、どの詩を取りのけ、どの詩を読めばよいかが明確になって詩を読むのが随分と楽になった。
といってしかし地上でないところはなにも天上だけではなく、天上を仰ぎ見る眼差しをそのまま下に向ければ地下を見ることになり、それが詩にならないかというと、地上とは別の場所なのだからそれはなるだろう。そして人間は飛翔することはできない、ということは生命から脱却することはできないが、ビルから落下することはできるし、その結果、死ぬこともできるので、天上より切実で具体的になる。
平田俊子の『戯れ言の自由』(思潮社、2484円)は、私たちが普段の暮らしのなかで目にするホッチキスの針とかタオルとか水道のレバーといった物やそこいらから聞こえてくるアホみたいな言葉や物音、駅とかそんなところに、よく見るといつの間にかひとりでに開いていた穴、或いはけっこう意図的に言葉で開けた穴、の向こう側、或いは下の方に見える世界、というか嫌でも見えてしまう世界を描いて、諦めを荒業で希望に繋(つな)ごうとするときの音が聞こえ色が見えるような心持ちがして、読んでよかったなあ、と思う詩集だった。念じた言葉によって言葉そのものが消えていく景色などもあって抑制的だけど切実な。