どこにでも詩人はいる
「詩、ってなに?」と正面切って問われても、詩なんて興味がないと言われてしまえばそれまでのこと。そこで、もう一度、「詩、ってなに?」という本書の文字を見つめてみる。実によく工夫されているのである。「詩」の次に読点がある。「詩、」。「詩ってなに?」というふうに表記したくなかったらしい。「詩」は「詩」であって、「詩っ」ではないのだ。では、「詩」とは何か。というふうに問うた書物は古今東西、無数にあって、詩の入門書も数多くあって、そのどれもが詩の定義はできない、という結論に導くのが常であった。もちろん、本書も例外ではない。にもかかわらず不思議に面白いのは、詩の書き手や詩について語る人々が、詩とは無縁のところから、縦横無尽に呼び集められているからである。すると、どういうことが起こるのか。どうしてこんなに「詩」に興味を持つ人が多いのだろう? なぜ、こんなに人間は自分自身を文字で表現したがるのだろう? しかも発表媒体がインターネットではなく、紙であることに、なぜいまも魅せられるのだろう? そんなふうにさせるなにものかが確かにあって、その何かが「詩」の魅力なのかと、詩を書き始めて半世紀以上経(た)つわたしのような人間でさえ、いまさらながら興味が湧いてくるのだ。
編者の平田俊子は、本書冒頭でいきなり自らで書き下ろしの詩を書く過程を開陳する。詩論など書くより、詩の言葉がどのように動き出すか、それを見せようというわけだ。まず手を動かすことが大事。そのとき、書いているのが自分自身であるという意識をどれだけ捨てることができるかを実践してみせる。言葉に迷ったら「たっぷり時間をかけて詩を育ててください」と言う。これは大事なことだ。詩は才能が書かせるものではない。想像力なんて作者独自のものではなく、外側からやってくるものなので、それをどんな夕イミングでつかむかが書き手の腕力。その腕力をどう見せるか、平田俊子はこの教え方がうまい。
本書の目玉は、これまで詩を書いたことがないという二人の若い女性との詩のワークショップ講座だ。一人は唐十郎主宰の劇団「唐組」の女優・赤松由美。もう一人は作曲家でありピアニストの小田朋美。彼女は歌詞も書き、歌もうたう。二人はそれぞれ演劇と音楽のジャンルで、すでにその才能を発揮して活躍している。演劇と音楽において、言葉はどのように必要なのか。あるいはおざなりにされているのか。別のジャンルの才能は、詩にうまくフィットできるか。残念ながら、加筆と訂正を繰り返すうちに、最初のシャープさが薄れていく作品になったのだが、これもまた本人たちにとっては実験。それにしても、書き上げた作品を編者に示し、一行ずつ自分でその言葉の背景を説明しているうちに、自分自身で書き直し箇所を発見する過程が面白い。平田俊子が一貫して聞き役に徹していて、三人で面白がって、添削講座になっていないところも魅力的だ。
谷川俊太郎、穂村弘を交えての連詩セッションでは、手練(てだれ)の谷川氏が全員を煙(けむ)に巻く手腕を見せる。そして本書の最後には、音楽家や美術家などさまざまなアーチストたち、国会議員や知事や市町村長などに依頼して書いてもらった詩が収録されている。日本の政治家が詩を書くと、かつては漢詩を真似(まね)する手合いが多かった。だが本書では、衆議院議員の亀井静香が「春」と題して、シラミのわいた年上の「ヘェーやん」を愛した子ども時代を描いた短い詩に出会って感嘆した。どこに詩人がいるか、わかったものではない。