正体不明の殺人鬼のごとく闇に溶け込むスラッシャー映画に光を!
バロック化したサブジャンル“スラッシャー映画”に、今いちど光を当てる
スラッシャー映画は80年代に全盛をきわめたホラー映画のサブジャンルである。正体不明の怪人が次々に無辜な犠牲者を襲い、惨殺してゆく。ジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』(78年)をその嚆矢とし、『13日の金曜日』(80年)のヒットにより爆発的に広がった。だがどんなにヒットしようと、スラッシャーは尊敬される映画にはならず、批評の対象にもならなかった。「セックスのかわりに殺人シーンのあるポルノ」と呼ばれ、もっぱらティーンエイジャーが観に行ってわいわい騒ぐための映画とみなされていた。殺人シーンとその趣向だけが注目されていたため、作り手はもっぱら派手で残酷な殺人シーン、誰も使っていない凶器、珍妙な動機にこだわり、映画はたちまちバロック化してゆく。作り手からも観客からも飽きられたジャンルは、『羊たちの沈黙』(91年)のヒットにより、「リアル」なサイコ・キラーが流行し、スラッシャー映画の約束ごとをネタにするメタ・スラッシャー『スクリーム』(96年)の登場によって完全にとどめを刺されることになる。ホラー映画史の徒花として散っていったその映画ジャンルに、今いちど光を当てようとするのが本書である。本書は大きく7つのパートに分けられ、それぞれに映画が紹介されていく。パート1は記念日別、『ハロウィン』だけでなく、バレンタインデー(『血のバレンタイン』)、クリスマス(『サンタが殺しにやってくる』他)、感謝祭(『血の週末/暴獣のいけにえ』)とあらゆる記念日に殺人鬼が割り振られている。パート2は殺害現場で映画を分類、パート3は殺人鬼の仕事である。分類自体がスラッシャー映画の批評になっているのは指摘するまでもない。つまり殺人鬼はどこにでもあらわれなければならないので、OLがオフィスで殺人する(『オフィスキラー』)とか、義父が殺人鬼だった(『W/ダブル』)とかといった映画を構想する人が出てくるわけである。それが成功している場合もあれば箸にも棒にもかからないものもある。
歴史的にはスラッシャーの始祖として1960年の『サイコ』、『血を吸うカメラ』の2本の映画が挙げられる。さらにはハーシェル・ゴードン・ルイスにはじまるスプラッター映画、そしてマリオ・バーヴァの『モデル連続殺人!』(63年)にはじまるジャーロの流れが挙げられる。その何がスラッシャーを生みだし、何が受け入れられなかったのか。
中原昌也は『ハロウィン』のマスクは、その裏に「内心をもっていない、実は人間ではないのでは? という恐怖を表しているように考える」と「カーペンターの1作目だけは、“人間の形をした、人間でないものが人殺しをしている”、そんな得体の知れない怖さを生みだしていた」と指摘する。
しかし、スラッシャー映画は真の怪物を描くのではなく殺人のバロック化へと向かう。だがバロック化によってはじめて得られた映画表現も存在するだろう。スラッシャー映画の評論はその両極のあいだを行きつ戻りつする。『ハロウィン』の節度ある恐怖を否定することは誰にもできないが、いっぽうで無節操で華麗な殺人描写の楽しさ抜きでこのジャンルの魅力もないだろう。本書ではあえてそのどちらかを選ぶことはせず、ただ玉石混淆のありさまをそのままのかたちで提示する。
だから、いちばん面白いのは典型的なスラッシャーではなく、何かのまちがいで作られてしまったかのような映画である。ジョン・カーペンターの優れた脚本のおかげでスラッシャー映画のかたちを持たないスラッシャーとなった『アイズ』。殺人鬼の正体:クラウス・キンスキーとしか言いようがない『クロールスペース』。ハリウッド・マダムことハイディ・フライスの恋人だったハンガリー人が撮った股旅殺人鬼もの『スキナー』。そしてきわめつけは「監督が加害者で主演俳優が被害者」なピエロ・ホラー『ピエロの館/マニアック1990』。その観てはいけない映画のなかには、たぶん何かが写しこまれているに違いない。スラッシャー映画のまがまがしい輝きが。