対談・鼎談

百目鬼 恭三郎『読書人 読むべし』(新潮社)|丸谷 才一+木村 尚三郎+山崎 正和の読書鼎談

  • 2021/08/27
読書人 読むべし / 百目鬼 恭三郎
読書人 読むべし
  • 著者:百目鬼 恭三郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(230ページ)
  • 発売日:1984-01-01
  • ISBN-10:4103148039
  • ISBN-13:978-4103148036

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山崎 百目鬼(どうめき)恭三郎さんは、この春まで朝日新聞の学芸記者をなさっていた方ですが、かねて読書人として、より知られていまして、多分、西の谷沢永一氏と双壁をなす方ではないかと思います。その百目鬼さんが、日ごろの蘊蓄(うんちく)を傾けて、読書の指針を書き下ろしてくださったのが、この本です。中身は「日本の古典」に始まり、「飲食の本」「歌舞伎の本」「旅の本」「探検記と地誌」「神話」……最後を「辞書」で締め括るという仕掛けですが、一貫しているのは、いわば”読書のための読書”という姿勢です。かろうじて、最初の「日本の古典」、国文学の範囲だけが、百目鬼さんの仕事に結びついているようでありますが、その他はすべて純粋な愉しみとして読まれた本です。

目次を見ますと、まず自然科学書が欠けているのは当然として、いわゆる社会科学書、哲学書、それに人生論が抜けているのが、顕著な特色です。これは、多分意図的に配列された目次であり、また百目鬼さんの書物に対する趣味、時には、いささか狷介(けんかい)な趣味が強く表れているような気がします。

読書を愉しむためには、どんな心がけが必要であるかということを、具体例に触れながら書いてあるわけですが、百目鬼さんが読破された無慮数百の本が、絶版のものは絶版、手に入りにくいものは、入りにくいと附記してあって、われわれが本屋まわりをする際にも具体的に役立つ本になっています。

それとともに、書物をめぐる文明論も述べられていて、たとえば、日本の文学史には、いわゆる冒険小説は全くなく、旅行記はあっても、その内容は古典のもじりであるのが常だ、という日本旅行文化論があるかと思えば、辞書は、物事の説明を探るために引くべきものではなく、言葉の働きを知るために頼るべきもので、そういうふうに作られた辞書がよい辞書だという。

そうした堂々たる見識が述べられている半面、読んだ本の中から百目鬼さんが拾い出された数々のエピソードが、この本の醍醐味になっています。

たとえば、歌舞伎俳優史の中の、五世菊五郎が〈妻とけんかして胸ぐらをつかまれたとき「それじゃあ形がわるい」と注意してつかみ直させた〉というような話とか、「伝記」の項では、女流前衛作家ガートルード・スタインは、同性愛の相手でもある秘書の眼と名前を借りて、『アリス・B・トクラスの自伝』というかたちで自分の伝記を書いたという、手のこんだ本が紹介してあります。

百目鬼さんは、まるでおいしいものを舌なめずりをしながら食べ、そのおいしさを読者にも分け与えようとしているかのようです。実用的な目的はもとより、人間性や教養を向上させるという目的すら卑しいものとして、ただただ読書を愉しむために読むという、一つの読書観が貫かれている点で、私は感銘をうけました。さて最後に、この『読書人 読むべし』という本そのものは、ではどういうふうに読めばいいのか、これは読書についての実用書でも教養書でもないとすれば、いったいどう読めばいいのか、というのが一つの問題であろうかと思いますが……。

丸谷 とにかくよく読んでるんですよね。たとえば、歌舞伎の歴史の本の中で、まず第一にすすめたいといっているのが、伊原敏郎(青々園)の「日本演劇史」「近世日本演劇史」「明治演劇史」。

私はこれらの本を知らなかったんですが、これだけ褒めてあるんだから、と思って、神田の古本屋で、とりあえず「日本演劇史」だけを買って読んでみました。そうしたら、たしかにいい本なんですね。ことに文章がよくて感心しました。著者の鑑賞眼は信用に値するんだなあ、といまさらのように感じたんです。

国文学とか、歌舞伎の本なら、私も少しは何か言えるのですが、旅の本や探検記、地誌になりますと、もう呆れたり驚いたりするしかない。恐しい貪欲(どんよく)さだなあ、と茫然とするんです。

実を言いますと、私は、著者とは旧制高校の同級生でして、大学でも一緒でした。旧制高校の頃、一緒に発句を作るとむこうが段違いに上手で、これは恐しい才能だと思った記憶があります。それ以後、何度もびっくりしているんですが、今度も改めて驚きました。

それほど古いつきあいなのに、一緒に旅行したのは一度だけです。一昨年、北海道へ一緒に講演しにゆきました。なにしろ、物知りと悪口で有名な人ですから、(笑)北海道のことをどう悪口いうかと、非常に愉しみにしていたんですよ。(笑)果して、北海道に着いたとたん、道路の横の樹を指さしまして、「北海道の樹は、曲もなく、ただ真直ぐ伸びているだけで実につまらない。そこへいくと内地の樹はいろいろ綾があって面白い」というんですね。(笑)「北海道というのはこういうところなんだ。自分は子供の頃、北海道で育ったからよく知っているんだが、たとえば、どんなつまらない川でも、河口あたりは何か雰囲気があるものなのに、北海道の川はただ水が海に出ていくだけという感じで、どうも殺風景でね」と、こういうんです。(笑)

それを聞いて私は、いかにも百目鬼恭三郎と一緒に旅行しているという満足感に浸ったのですが、(笑)北海道の樹と川に対するこの悪口は、彼という男を集約した感がある。私なら漠然と見過したにちがいない樹や川にまで、旺盛な好奇心を燃やす。そして、それについて言うことが、非常に個性的な趣味に貫かれている。(笑)そういう旺盛な好奇心、個性的な趣味が、この本にはよく出ていまして、そこが、この本の読み方の第一の着眼点だろうという気がいたします。

木村 私は文句なしに「参った」という感じです。ともかくこれだけの本を読むというのは、大変な能力と執念だなと思いました。

山崎 それに、恵まれた時間ですね。やっかみ半分に言いますが、朝日新聞というのは実にいい会社ですね。こういう天才に、これだけの時間を与えていたんですから。(笑)

木村 目次を見ますと、私が読みたいテーマの本がズラッと並んでいるのに惹かれました。そして何より申し上げたいのは、極めて現代的なテーマにしたがって書物が選択されていることです。

著者も〈文化というものは、社会の余裕、いいかえれば隙間の中で熟成するのである〉と述べていますが、現代はいわば”成熟社会”でして、私たちはよりよい生き方というものを強く希求している。

そのためにはまず、昔の人の知恵や体験が見直されるわけですが、いうまでもなくこれは古典を通してであり、この本でも最初に「日本の古典」が、終りの方に「中国の古典」が収められています。

また今のような成熟の時代、あるいは低成長経済の時代では明日のために今日を犠牲にするのではなく、一日一日の生活を大切にし、その質を高めることが重視されます。それが、この本では「飲食の本」という一項目になっています。

と同時に時間の観念が後退して空間観念が働くようになります。ほかの地域ではどういう生き方をしているかという興味が人を旅に誘うわけで、低成長時代は旅の時代という特色を持っていますが、この本にも「旅の本」の一章があります。また、先行きがはっきりしない時代には、人々が色々な形で夢を求めます。コロンブスはじめ多くの探検家が出たヨーロッパの十四、五世紀もまさに低成長期の始まりのときでした。現代では”未知の土地”といっても宇宙くらいしかないわけですが、それだけに、この本のなかで紹介されています過去の「探検記」や「神話」が、新しい意味をもってくる。

全体が一致結束して生きるよりも、個人志向が強くなってくるというのもこの時代の特徴で、やはりこの本のなかで一章を割いてある「伝記」への関心と研究が日本でも盛んになってきたのはその表れといえるでしょう。

そういった意味で、この本は著者が自分の好みで、自由に読んだものをただ並べただけのように見えますが、実は大変に現代的な項目建てになっています。

山崎 なるほど、ある意味で、百目鬼さんが、非常に我儘に自分の好みを主張していたら、世の中のほうがグルッと回って、彼の趣味に迎合するようになってきたということかもしれませんね。(笑)

木村 そうかもしれません。(笑)

山崎 私はこの本について、二重の意味で感心するんです。一つは、個々の批評が的確です。「伝説と昔話」で〈ちかごろは、ユング学派の精神分析研究が流行しているようだが、あれは昔話の研究ではなく、昔話をダシに使って精神分析学を研究しているにすぎないらしい〉とずばりおっしゃる。あるいは日本文学の原点が「万葉集」にあるというような素朴な文学観は間違いだとおっしゃる。これは、私はとくに、快哉を叫びたい。地名辞典は一人の天才がつくるべきもので、沢山の専門家がよってたかっても、徒らに船頭多くして船山に登るだけで、「大日本地名辞書」の吉田東伍に及ばない。こういうかなり独断的だけれども、的確な批評が一方であります。

それと同時に、何といっても、この本の魅力は、いままでの社会の常識で役に立つ読書を無言のうちに排除していることです。それがある人たちには、あまりに趣味人めいて気障(きざ)だといわれるかもしれない。社会科学や人生論について何の言及もないという姿勢に、批判があるかもしれない。しかし、この本はそれが一つのユニークな主張になっているんです。

そしていま、八〇年代の日本では、目的追求であくせくしてきた時代が終って、人生のプロセスを満喫する時代が始まった。読書を目的から解放してプロセスとして愉しめばこうなる、という主張が、ここで時宜にかなってなされているような気がします。

木村 イギリスの経済史家にクラパムという人がいるんですが、綴りからはふつうクラファムと読んでしまいがちです。こんなことは、僕ら歴史研究者だけしか知らないだろうと思っていましたら、百目鬼さんはちゃんとそのことを指摘していた。とにかく、この人にかかると、分らないことはないんじゃないかと思うくらいです。(笑)コーヒー史の本の中で「文士アディスンの妻君がつれていた気のきいた召使いを女将としてバトンズ珈琲店を開店した」とあるのは間違いで、実際は〈召使いはダニエル・バトンという男で、その主人だったウォリック伯未亡人がアディスンと再婚したのは、バトンズが開店した四年後である〉と。ちょっと複雑ですが、(笑)要は、コーヒー史の著者が完全に読み違えてるわけです。でもどうして百目鬼さんはこういうことが分るのか、不思議です。

「旅の本」の中で「菅江真澄遊覧記」の編者の解釈が民俗学中心で、歌学をおろそかにしていると、藤原清輔の「袋草子」や大江匡房(まさふさ)の「江家(ごうけ)次第」を引用しながら、百目鬼さんはその不備を指摘して〈これでは、真澄は、現代の多くの民俗研究家とおなじ常民バカになってしまう〉。

山崎 あれは痛烈ですね。

木村 こういう点の恐しさ、批判された人は、自分が知らなかった事実を提示されたわけですから、心臓につき刺さるような感じがすると思います。

ただ必ずしも、百目鬼さんの批評の全部が全部、文献に基くものでもないんですね。

飯を食いながら酒を飲む人間には、酒の味が分らんという通説がありますが、それに対して、「酒だけ飲めば、それが一番まっとうな飲み方で、いわゆる食べ物を口に入れるのは邪道だという考え方は、いったい、いつ頃から流行りだしたのだろうか」という篠田一士さんの疑問を引用して、さらに百目鬼さんは〈酒ばかり飲んでものを食わないというのは、日本の貧しい農村習俗の名残りであって、宴会に招かれ、日ごろめったに口に入らぬ膳部の料理は、家で待っている家族に持って帰るために手をつけない。従って宴席では酒ばかり飲むということになる〉と断定しておられます。確かにこのことは本当ですし、また私も酒と食事を一緒にやりますが、酒飲みがほとんど食べようとしないのは、ほかにも理由があると思う。つまり、日本の酒は、おかずを拒否する性格がありますね。お酒が主人にならないと気がすまない。食べ物は、お酒に奉仕し、お酒を引き立てる家来である場合しか許さない。

山崎 酒がおいしすぎるわけだ。

木村 そうですね。御飯と同じく、お酒の味を本当に楽しもうとすれば最高のおかずは塩です。

丸谷 それで塩辛やウニができたんですね。(笑)

木村 それが、日本で副食文化が発達しなかった大きな原因ですね。そういう意見もありうると思うんですが、百目鬼さんはともかく戦闘的に断定する。(笑)闘争的なんですね、この本は。

山崎 また、百目鬼さんが厳かに宣(のたも)うと、本当にそうだと思えてしまう。(笑)

丸谷 これは私の関心のせいかもしれませんが、「日本の古典」のところが一番面白かったですね。読み方の順序が書いてあって、まず最初は「百人一首」を読め、次に「新古今和歌集」、その次に「古今和歌集」を読めと、順序まで指定してある。これは大変な自信ですし、またこの順序は正しいと思うんです。

それで思い出したのは、折口信夫が国学院で、ある年、和歌の講義をした時、最初に「古今和歌集」の巻二十、大歌所御歌、神遊び、東歌の巻ですが、それを講義して、次に「万葉集」巻一に入ったそうです。これは、和歌の歴史を講義する際の最上の道筋の一つかもしれません。折口信夫らしい切り口を示している。

と同様に、著者が示した順序は、和歌を読むための最良の道の一つで、いかにもこの人らしい感じがする。

そう感心した上でいうんですけれど、この調子で、普通の日本人が中国の古典を読むにはどうすればいいのか、「史記」から始めればいいのか、「三体詩」がいいのか、そういう趣向が各章にあったら、著者の個性と蘊蓄(うんちく)がどんなに鮮明に出ただろうか。日本の古典の章だけというのは、ちょっと惜しかったなあ、という気がするんですね。

山崎 しかしそうすると、今度は西洋文学についてもいわなくちゃいけない。さしもの百目鬼さんも、そこまでは無理なんじゃないですかね。

木村 これは読書三昧を通して、著者自身の思想や、好みが説かれている。そういう本なんだと思います。

丸谷 山崎さんは「愉しみとしての読書」とおっしゃった。木村さんは「読書三昧」とおっしゃる。そういう本の面白さだけにひたる読書、無目的な読書という面が、この著者にはたしかにかなり強いと思うんですよ。

しかし、一般に本を読むのは、何かの関心があるから読むわけですね。それを「問題意識」というと、話は野暮になるけれど、野暮を承知でいえば「問題意識」がなければ知的な読書とはいえない。「新古今」論をいろいろ読むのは、「新古今集」がなぜ秀れているんだろう、どうしてあれだけの歌集ができたんだろう、そういう関心に突き動かされて読むわけです。

ところが、一般に読書案内というのは、特に必読書百選の類はそうですが、主体的関心を抜きにして書くことになりがちなんですね。この本は、丁寧に読めばそこは読み取れるんですが、やはりよほど丁寧にしないと、なにか面白い本を並べたというふうに受けとられがちなところがある。僕はそれが、この本に対するほのかな不満なんですね。

山崎 いま丸谷さんは、非常にいい問題をお出しになったのですが、私は読書について、大雑把に三つくらい姿勢があると思うんです。三つ目はあとにして、最初の二つは、誇張していうと正反対の姿勢です。

一つは、自分の問題意識、あるいは知的必要から、逆に本を捜して読んでいくという姿勢。これを最も強くマニュフェストとして書いたのは梅棹忠夫さんで、あの方はまず論文を書き始めてからでないと、本は読まないという。もちろん、これも誇張であって、本当は梅棹さんも、もっと愉しく本を読んでいるんだと思いますけれど、そういう立場があるということはいえますね。

その逆が、百目鬼さんがここで言外に主張しておられることで、本はそういう目先の必要によって読んではならない。では、どういう要求に従って読むのかというと、そこに曰(いわ)く言い難い伝統、あるいは文化の蓄積があって、おのずから指針はあるものだ、という考えだと思うんです。

日本人は昔からカルタにして選ぶほど、「百人一首」は教養の入口として広く公認されてきたんだから、まずそれから読み始めるべきである。あるいは中国では四書五経が一つの教養の体系として存在しているのだから、その秩序に従って読み進めぱいい。

こういう二つの方法が、我々の前に対置されていると思うんです。むろん百目鬼さんだって、実は目的的な仕方で本を読んでおられることは明らかなんですが、二種類あることをここでくっきり言っておくことは有用だと思うんです。

ちなみに三番目は無手勝流でして、ただブラッと本屋に入って、店頭をグルッと見廻して、まるで一目惚れでもしたかのように本を買ってきて読む。

丸谷 一期一会(いちごいちえ)ね。(笑)

山崎 ええ、私はこれは捨て難いと思っているんです。みんな黙っていますが、案外これが、われわれの青春期の教養糸口をつけてくれた読み方だと思うんです。

丸谷 私は、一期一会性が一番強いのかなあ。(笑)ただ前の二つの要素もかなりありますね。それらをA、B、Cでいうと、Cの場合にしてもA、Bの面が少しは入っている。偶然手にとった本にしろ、それを読み続けるのは、読むほうの中に何か関心があるからなので、そこを抜きにすると、本の話は、肝心のところが一つ抜けているような気がするんだなあ。

木村 著者は独学ということを強調するわけですね。〈私は学究生活を送った経験はありません。従って、どんな本を読んだらいいかは、ほとんどだれにも教えられずに、独学で探してきました〉と。

それともう一つは、権威とか通説に対する反骨精神がある。「タイ・カップ自伝」は〈彼の野球人生をはなはだ戦闘的にしていて面白い〉とか、石田吉貞「百人一首評解」は、江戸前期の歌学者戸田茂睡(もすい)に対して、激しく反論している自信がいいと評価します。この著者自身の内に潜む、激しい情念がうかがえますね。

山崎 その激しい情念というのはおもに何にむけられたものなのか? 先ほどの私の分類からいいますと、一番目の功利的目的論的な読み方に対する反骨だと思うんです。功利的といっても、何も産業社会に奉仕するということばかりではなく、人生をよく生きる、自我にめざめるというようなことも含まれるんですね。そういう態度が日本では”教養主義”とよばれて、「I書店」とか「A新聞」などが大いに鼓吹してきた。それはそれで、近代化の中では意味があったんだと思うんです。

百目鬼さんはしかし、そうじゃなく、文化には長い時間をかけて磨かれてきた、暗黙の体系というか、常識の秩序のようなものがあるはずだ。かつての四書五経とか「百人一首」とかいうものですが、それが現在は目に見える形ではなくなった。それでは自分がそれを作ってみようという壮大な志があって、この本はその試みの一端ではないかという気がするんです。

ですから、これは読書における一つの反近代主義に貫かれている。百目鬼さんは自分で保守主義者だと言っておられるけれど、イデオロギーの保守主義ではなく、文化についての保守主義だと思うんです。近代主義の限界が見えてきた時点で、こういう本が出ることには、大きな意味があると思います。

木村 反近代主義と、さらに反権威主義、世の中があれを読めば間違いないといっている本に対する反感が、著者にはありますね。この方はとにかく大きいものは大嫌いなようです。「日本古典文学大系」とか……。

山崎 ちなみに、それは「I書店」です。(笑)

木村 そして「日本国語大辞典」。これに対する反感はすごい。

丸谷 「日本古典文学大系」の悪口は、非常に言いやすいんですよ。(笑)ただ、全体的に見て、日本の古典が今これだけ読まれるようになったのは、まずあれがあったからだということは認めなきゃならないんです。

木村 その通りですね。

丸谷 そういう一応認めなきゃならないことには力点を置かないで、抗議するところに情熱がこもるという点で、百目鬼さんは、まことに意外なことに、左翼的な朝日の記者によく似てますね。(笑)

山崎 友人だからこそ、そうおっしゃる。(笑)たしかに一般論としていうと、知的世界ではゲリラがつねに大軍に勝つ構図になっていますね。つまり知的世界は腕力の世界とは逆で、大きな構築物を作る側が必ず損で、ゲリラがちょっと足をひっぱれば、簡単に勝つんです。そういうきらいが百目鬼さんの方法の中にないと、私も言いません。

しかし「日本国語大辞典」と「例解古語辞典」という小さな辞書を比較して、〔なから〕という言葉の説明は小さな辞書のほうがしっかりしている。「たづ」と「つる」という言葉の使い分けに関しても、やはり後者の説明がまさっている――など体験から出た指摘で、勉強の跡がはっきりしているんですね。

丸谷 それは不勉強な左翼記者とは全然違います。(笑)

木村 しかしこの本は、本当にただの読書案内なんでしょうか。私は読書案内とか読書遍歴を通して、この方が自伝を書いたのだという気がしました。読書を通して自分の伝記を語り、表現しているんですね。

丸谷 それは、僕もとても感じました。むしろ、もっと自伝性を強く出したほうがよかったんじゃないかという気がするんです。私たちが本を読むのは、Aという本を読むと、中にBとCという本のことが書いてあって、どうもこれを読まなきゃいけないような感じになる。BとCを読むと、今度はDとEという本が読みたくなってくる。そうすると……といったようなことがあるでしょう。実はこういう本の読み方というのが、本当の読書リストなんですよね。

この著者は、そういう読み方でやってきたに違いないんです。ところが読書案内という体裁のせいで、読書的自伝という様相を消してしまった。先ほどもいったように、そこがちょっと不満なんです。

山崎 同じことを別な言い方でいいますと、この本には、ある本を読んで面白かったということは沢山書いてあるけれども、感動したとは一行も書いてない。たぶん、百目鬼さんも感動された本があるにちがいない。にもかかわらず、そこがこの本に欠けているということが、まあ、私の望蜀(ぼうしょく)の不満というところです。

読書人 読むべし / 百目鬼 恭三郎
読書人 読むべし
  • 著者:百目鬼 恭三郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(230ページ)
  • 発売日:1984-01-01
  • ISBN-10:4103148039
  • ISBN-13:978-4103148036

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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
三人で本を読む―鼎談書評 / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
三人で本を読む―鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • ISBN-10:4163395504
  • ISBN-13:978-4163395500

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文藝春秋

文藝春秋 1984年8月

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