対談・鼎談

大岡 信『日本詩歌紀行』(新潮社)|丸谷 才一+木村 尚三郎+山崎 正和の読書鼎談

  • 2022/07/21
日本詩歌紀行 / 大岡 信
日本詩歌紀行
  • 著者:大岡 信
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(342ページ)
  • ISBN-10:4103038047
  • ISBN-13:978-4103038047

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山崎 これは『日本詩歌紀行』という題がついておりますけれども、別に紀行文ではありません。日本の代表的な詩人の一人であり、また詩の解釈者としても一流の大岡さんが、日本の文学史の中を縦横に旅しながら、われわれに代わって模範的な鑑賞を見せてくれている本です。

平安朝からはじまり、最後は現代詩人までカバーしているわけですけれども、わたくしが特におもしろかったのは、連句についてその面白味を解説しながら、具体的に蕉門の連句『猿蓑』を注釈している部分です。

この章の題になっている「足駄はかせぬ雨のあけぼの」という一句は、日本の連句史の中でも魅力的な一句ですけれども、これについていろいろな解釈がある。

芭蕉が「此里に古き玄蕃(げんば)の名をつたへ」と詠んだあとに「足駄はかせぬ雨のあけぼの」と越人(こしのひと)がつけた。それを受けて芭蕉が「きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに」と詠むわけですが、この「古き玄蕃の名をつたへ」というわかりにくい句について、古来いろんな解釈があることがわかり、自分でも何か珍説をひねってみたくなるような誘惑を覚えました。

特に「足駄はかせぬ雨のあけぼの」という句から「きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに」のつけ方ですけれども、わたくしのような近代俳句にしか馴染みのない人間には、むしろ「雨のあけぼの」そのものが、あまりにかぼそくあでやかで足駄なぞはきたくない、というふうに読みたくなる。いろんなことを考えさせてくれるおもしろい文章です。

また小山内薫の近代詩、あるいは宮沢賢治の短歌があること自体、わたくしは知りませんでした。宮沢賢治の短歌は、たいへんハイカラな感覚主義と、詩の場合にはない一種の耽美主義というか、頽廃が出ているのがよくわかりました。宮沢賢治は詩を書くと、どことなく律義になってしまう人ですけれども、若い頃の短歌は、完成した作品ではありませんが、もっとふくらみや、腐敗、崩れの可能性を秘めていて、わたくしは宮沢賢治を見直しました。

また、小山内薫も別の意味でたいへん律義な人であり、したがって、どうも抒情詩というのはおもしろくなりそうもない作家です。その中から「あかつき胸の骨高し」という一句を引っ張り出して、そのイメージをさらに「狂人の歌へる秋の歌」という、意外なほど感覚的でどこか病的な詩へつなげて説明する。しかも、その「あかつき胸の骨高し」という一句を解釈するに際して、荷兮(かけい)の「肌寒ミ一度は骨をほどく世に」、それを昌圭が受けた「傾城乳(チゝ)をかくす晨明(あけぼの)」という連句を引っ張り出してくるあたり、まさに大岡信さんの独壇場という印象を受けました。

丸谷 大岡さんは、東大国文科の出身なんですけど、卒業試験の口頭試問のときに、池田亀鑑教授から「おや、あなたは仏文の方ではなかったんですか」といわれたというんですね。

仏文科出身であるかのごとく見える国文科卒業生、というところで彼の仕事の性格はかなりわかる。西洋文学のほうから国文学を見る人は、たくさんいます。ところが、大岡さんの場合はその方向だけではなくて、国文学のほうから、西洋の文学を見ている方向もあるわけですよね。この交叉する軸によって古今東西の文学が自由自在に捉えられているという感じが、大岡さんの仕事の一つの特徴だと思うんです。

それから、大岡信という人は、毎日、四時間か五時間しか眠らないんですって。だから、あんなにたくさん書ける(笑)。

山崎 すごいねえ。

丸谷 ぼくだって、四時間か五時間しか眠らないことは、たまには可能ですよ。でも、そういうときは、ひどく機嫌が悪くなる。ところが大岡信が不機嫌であるというのは、考えることができない。この人は非常に機嫌のいい人なんですよ。ですから、古今東西の文学に対して非常に機嫌のよいつき合い方をしているんですね。

山崎 なるほど、それは至言だな。

丸谷 そういう精神の運動の結果が、こういう読んでわかり易く、爽やかな、ゆったりした本として、われわれの前に出されるんですね。

たった一つの欠点は『日本詩歌紀行』という題です。この題はまことに魅力がない。どうして大岡信のような言葉の達人が、こういうつまらない、人の心に訴えることのない題をつけるのか。じつに残念だと思いました。

木村 反対にわたくしは、この題に非常に感銘を受けたわけです(笑)。

この本の愉しさはどこからくるかというと、旅の愉しさ、旅の心ですね。彼はこう書いています。

旅というものは、自分の定住地を離れて、ある期間さまようことを意味しているわけだが、人は自分の定住地を遠ざかるにつれて、別の何ものかに近づいてゆくわけで、その遠ざかりと近づきとの交錯の中に、人の旅情とか旅ごころと名づける気分が成立する。

つまり、大岡さんの評価の基準にあるのは、土離れの精神なんですね。土から離れて気持が翔んでいる、その翔んでいる目でもって『万葉集』も、谷川俊太郎も見るわけですね。これは、自分の気持が現実からある程度離れていないと、できないことです。ぴったりくっついていたんでは、文学史はわかっても、直接、わたくしたちの気持と古代人とを直面させることはできないわけですね。大岡さんにはそれができている。

それだからこそ、動的なものが彼にとっては興味がある。「石のころび声」とか、「浅水の橋の とンとろ とンとろと降りし雨(あめン)の」といった、動きのある言葉ですね。

山崎 大岡さんはこの中で逐行(ちくぎょう)批評をやっている。世の中の多くの文芸評論家の中で、詩の逐行批評をやれる人というのは、そういないはずです。

小説の批評をするのに、粗筋(あらすじ)を書かない批評家が無数にいます。ドラマの批評についてもたとえ現代の非条理なドラマであれ、自分の手で粗筋を書き直せないような人は、わたくしは批評家と認めない。とかくこういうタイプの批評家は、自分の目で一行一行読んでいって、わかり易い言葉で語ろうとしない。それを語ると、批評家のほうの正体が見えるんですね。それを避けて、何となく全体的な印象から出発して、それに思想的、哲学的解釈を加えるというのが多い。

大岡さんは、ここで非常に危険を冒して一行一行、自分の感想を述べている上に、詩人としての自分の体験まで白日のもとにさらしてくれているわけです。

たとえば、「丁丁丁丁丁」という賢治の詩ですけれども、肉筆を写真で撮ったいわゆる校本全集を見たら、最初は「丁丁丁丁丁」という字句がなかったんですね。「叩きつけられてゐる 叩きつけられてゐる」という言葉から始まっていた。そのあと、いつの段階かで「丁丁丁丁丁」という感覚的な飛躍がやってきた「それで私は安心した」と述べている。こういうふうに書かれることは非常に誠実だと思いました。

たとえば「尊々殺々殺」という言葉の解釈ですけれども、普通なら余計な解釈は書かないですましたほうが安全なわけですね。大岡さんが、尊属殺人のイメージをもった、といってくれたおかげで、読者は違うイメージももてるわけです。わたくしなどは「仏に会えば仏を殺す」というような、宗教的なイメージを感じました。

丸谷 西洋の場合には、大抵の批評家がみんな詩人兼批評家でしょう。ところが日本では、そういう人は珍しいですから、大岡信っていう人は、いまの日本の詩人の中で、たいへんな異端者なわけですね。

山崎 そうでしょうね。

丸谷 ところが彼は異端者につきまとう歪んだ感じを徹底的に排除して生きている。そこのところがおそろしく強いんじゃないでしょうか。こういう強い男だから、これだけいろいろな形の詩、いろいろな時代の詩とつき合って、非常に丁寧な鑑賞のしかたをすることができるんだろうと思うんです。

木村 この方は、言(こと)と事(こと)とが日本の場合一つになっていることに注目していますね。

てにをはが日本のあっち行きこっち戻りする情感の世界を形づくっている。日本的抒情の世界をつくっているのは言語であって、日本民族そのものではない、といっているわけですね。

言葉で表わされた物と心とが助詞を通してふれ合う瞬間というものを非常に大事にしている。そういう意味では、直観力の恐ろしく鋭い人ですね。それと同時に、いつも具体的にものを見ながら心を動かされてゆく。その意味で、非常に現代的だと思いました。

山崎 大岡さんは逐行鑑賞されているわけですね。そういう距離で詩とふれ合うというのが、本来の人間と詩との関係であるはずなんです。彼はその立場を取って、歴史を縦横に紀行してみた。そうすると、彼の目には、ある詩人や歌人が、議論としていっていること、あるいは世評がその人に貼りつけたレッテルと無関係に、突然等し並みに美しい世界が開けてくるわけですね。

そこを辿ってゆくことは、多くの読者に裨益(ひえき)するところが大きいと思うんですが、ふと思うのは、それじゃ大岡さんは、どういう詩人が嫌いなんだろうか、ということです。

この態度をとってゆきますと、おもしろいものばかりが見えてきて、世界はたいへん愉しいんですが、ある意味でいうと、嫌いなものを避けて通ることになる。ですから、この本の中に瑕瑾(かきん)を捜すとすれば「私はすくなくともこういう詩は許せない」という一行が欲しかったということですね。

丸谷 批評家は、褒める批評が書ければそれでいい。しかし、褒める批評を書いた手前、その責任を取って、ごくまれには徹底的に貶(けな)さなきゃいけないんですね。

大岡信がそれをするためには、一日五時間ではなくて、やはり、八時間眠る必要があるんですよ。そうすれば、たまには猛烈な爆撃の批評を書くようになると思いますね。

山崎 そうですね。しかし、詩人が一日四、五時間しか寝ないというのは、文明上の一大問題ではないでしょうか。

木村 この本の戦闘的でないところが、現代人のメンタリティーをよく表わしているわけです。大岡さんはここで、ご自身の愉しい世界をつくっている。攻撃的、戦闘的なのは近代人の神経であって、まだわれわれにも残っています。新しいものを創り出してゆくときには、周りを排撃し、自分の至上とするところへ向かって突進して行く。これがいままでの批評家的精神ですね。

現代の人たちは、何で心優しいのか。何で互いに愛と連帯を叫びつつあるのか。ある意味では活力が失われているわけですけれども、その分だけ現実を愉しみたいという気持があるんですね。これは、現代人一般に通用する神経です。その神経を、大岡さんは、じつに見事に体現している。

山崎 批評でむずかしいのは、褒める批評であって、貶す批評というのはじつに簡単なんですよ。つまり、「あるものでない」ということは言葉を尽くさなくてもいえるわけです。しかし、「あるものである」ということをいうためには、描写の能力も、再現の能力も、要約の能力もたいへん必要とする。

ですから、褒め上手というのが、本当の批評家だと思うんです。また逆にいうと、褒めた批評は、横から見ててあらが捜し易いんです。貶した批評は、本人は姿を隠していて闇討ちするようなところがありますから、決してあらが捜せないんですね。そういう意味で大岡風批評というものは、わたくし自身の批評の精神の根底でもあるし、非常に共感するんです。

ただ、やはり座標軸のようなものが必要だと思う。つまり、ある一つのものが嫌いだといってもらうと、別のものについて、それを好きだといっている気持の程度がわかるんですな。全部褒めちゃうと、どうも原点のない地図みたいなことになってくる。

木村 すると、愉しんでばかりいないで社会的責任も果たせ、と……。

山崎 うーん、そういうと、ちょっと野暮になりすぎますがね(笑)。

丸谷 いや、おっしゃるとおりだと思う。つまり、批評家は、文学に対する責任があると同様に、文明に対する責任がある。文明に対する責任のとり方は、貶す批評をたまに書くことによって非常に明確になる。文明の中の自分が排除しなければならない要素には、もっと猛烈に立ち向かわなければならない。

山崎 そうですね。批評の語源は「クリテイン」ですか。つまり「分ける」ということがどこかにあるわけで、分けなきゃいけないんですね。それはもちろん、自戒をこめていっているわけですけれども、褒める批評というのは包んでゆくわけですから、時々分けないと、包んだ意味がなくなっちゃうかもしれませんね。

日本詩歌紀行 / 大岡 信
日本詩歌紀行
  • 著者:大岡 信
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(342ページ)
  • ISBN-10:4103038047
  • ISBN-13:978-4103038047

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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
鼎談書評  / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:-(326ページ)
  • 発売日:1979-09-00

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初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1979年1月8日

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