コラム
均質な時間と空間の中で
私たちの生きている〈いま〉とはどんな時代なのか。どうやらそれは構造体としての妙味に欠けるノッペラボーの時代らしいが、建築という専門領域から絶えず有効なことばを発信しつづけ私たちの混乱を整理してくれている原広司から、まず正確な定義をもらうことにしよう。
この〈均質空間〉という鍵ことばは至るところに当てはまる。たとえば、大量の活字や映像がまたたく間にあたりを均質空間にしてしまうではないか。なにか新しいもの、なにかおもしろいもの、なにかよいものは、これを磨き上げる暇もなく活字に刷られ、映像となって氾濫し、走査線上を走り回り、一瞬のうちに擦り減って粉となって四散してしまう。その粉の堆積がこの時代の均質性を決定しているわけである。人びとは大型の喜劇役者の出現を長い間待ち望んでいるが、これは無理な相談というものだろう。どこをどう切ろうが、よくできた金太郎飴よろしく、いつも同じ顔しか出てこない〈いま〉にあっては、ちょっとおもしろいだけですぐさまそれと目につきやすく、修業期間もないままに、ということは自分の異質性(個性と読みかえてもよい)を築き上げる余裕もなく、世の中の表面へあっという間に引きずり上げられ、たちまちのうちに粉にされてしまうからだ。
もっともこういう時代だからこそ芸術がより貴重であるといい得る。芸術が血の通わないことばだというのであれば〈芸の術〉でもよいが、これらのなかには均質性をあくまでも拒否しながら(この場合、俗に通ずることを拒否しながら、といい直してもよい)、自分の小宇宙をしっかりと確保しつづけ、そのためにかえってこの均質空間のオアシスとなり得ているものがあるからである。大江健三郎の『同時代ゲーム』(新潮社)がまさにそれだ。
むかし「変わり玉」という石よりも堅い飴玉があった。齧(かじ)ろうとすれば歯の方が欠けてしまうので舐(な)めているしかない。溶けてしまうまでに小一時間もかかるのだが、ときどき取り出してみるとがらりと色が変わっている。つまりいくつもの色の層が重ねられているわけで、変幻自在のたしかな小宇宙といった感じの飴玉だった。この長編をその飴玉にたとえては失礼だという人もいるかもしれぬが、私はそうは思わない。この飴玉は祭りのときにしか手に入れることのできない最上の菓子だったのだから。
さてこの長編の各層であるが、まず語りの層がある。ひとりの歴史教師が、かつて「村」(終始、「村=国家=小宇宙」と表記されているのだが)の青少年たちの性的あこがれであり、のちキャバレーで艶名をはせ、妊娠中絶手術の病後を養うため帰村中のところをこの歴史教師に襲われ、のちに東京銀座で盛業のクラブを経営し、たまたま来日した米国副大統領閣下の性的友だちの役目も引き受け、果ては入水自殺をとげ、死んだと思えばまた現れて、いまは四国山中の大きい森のなかのその村で巫女たらんとしている自分の双子の妹に向けて、呆れるほどの情熱をもってしたためる六通の長い手紙、これが語りの層である。
物語の層は、その村の古代から現代にいたる神話と歴史である。とても要約は不可能であるが、その要所をひとまず押さえれば、藩政の改革に力をあらわしたので、かえって旧勢力と対立することになり、ついには敗れた若侍たちが、一艘の船に乗り込み、彼等独自の未来を開き得る土地をめざした、というのが神話の発端だ。彼等は沿岸をめぐり河口に達し、行く手を塞ぐ大岩塊を引率者の、創造者であり破壊者である「壊す人」(この三文字は終始、肉太活字で表記される)が爆破し、谷間の小盆地に入る。とたんに五十日の長きにわたって降りつづく大雨。「流され王=貴種流離譚」「ノアの大洪水」などの神話素(物語素ともいい得る)が、この物語層の下に隠し層としてひろがっており、やはりこれは「変わり玉」の比ではない。人智を尽くした精巧な仕組みである。そしてあらゆる局面にたちあらわれる壊す人の夢の層。
(次ページに続く)
……現代の都市は、その中心部において、均質空間が支配し、それに従属するかたちで、周辺部分の環境ができている。(略)均質空間が支配する都市にあっては、建築的考察は一切排除される。なぜなら、そこでは、理想とする空間の形式はすでに完成されていて、自然から絶縁したところに等質性をもつ空間をつくり、人工的な気候調節だけに意を払えばよいからである。この定式は、エネルギーは無限にあり、都市の景観など問題ではなく、ましてや、人間関係に対応する建築的考案など考慮する必要もない。ただ、惰性的に、空間の増殖だけに専心すればよいのである。
……貨幣の尺度が、民族をこえ、文化をこえ、あまねく人々に共有される尺度であるという前提から、インターナショナリズムは構築される。この前提は、ものについての管理可能性をみちびき、さらにこの構想が都市形態にうつしだされるとき、管理が最大に可能である環境として、均質空間がいずこにもあらわれるという仕組みである。(「日本読書新聞」昭和五十五年一月二十一日号)
この〈均質空間〉という鍵ことばは至るところに当てはまる。たとえば、大量の活字や映像がまたたく間にあたりを均質空間にしてしまうではないか。なにか新しいもの、なにかおもしろいもの、なにかよいものは、これを磨き上げる暇もなく活字に刷られ、映像となって氾濫し、走査線上を走り回り、一瞬のうちに擦り減って粉となって四散してしまう。その粉の堆積がこの時代の均質性を決定しているわけである。人びとは大型の喜劇役者の出現を長い間待ち望んでいるが、これは無理な相談というものだろう。どこをどう切ろうが、よくできた金太郎飴よろしく、いつも同じ顔しか出てこない〈いま〉にあっては、ちょっとおもしろいだけですぐさまそれと目につきやすく、修業期間もないままに、ということは自分の異質性(個性と読みかえてもよい)を築き上げる余裕もなく、世の中の表面へあっという間に引きずり上げられ、たちまちのうちに粉にされてしまうからだ。
もっともこういう時代だからこそ芸術がより貴重であるといい得る。芸術が血の通わないことばだというのであれば〈芸の術〉でもよいが、これらのなかには均質性をあくまでも拒否しながら(この場合、俗に通ずることを拒否しながら、といい直してもよい)、自分の小宇宙をしっかりと確保しつづけ、そのためにかえってこの均質空間のオアシスとなり得ているものがあるからである。大江健三郎の『同時代ゲーム』(新潮社)がまさにそれだ。
むかし「変わり玉」という石よりも堅い飴玉があった。齧(かじ)ろうとすれば歯の方が欠けてしまうので舐(な)めているしかない。溶けてしまうまでに小一時間もかかるのだが、ときどき取り出してみるとがらりと色が変わっている。つまりいくつもの色の層が重ねられているわけで、変幻自在のたしかな小宇宙といった感じの飴玉だった。この長編をその飴玉にたとえては失礼だという人もいるかもしれぬが、私はそうは思わない。この飴玉は祭りのときにしか手に入れることのできない最上の菓子だったのだから。
さてこの長編の各層であるが、まず語りの層がある。ひとりの歴史教師が、かつて「村」(終始、「村=国家=小宇宙」と表記されているのだが)の青少年たちの性的あこがれであり、のちキャバレーで艶名をはせ、妊娠中絶手術の病後を養うため帰村中のところをこの歴史教師に襲われ、のちに東京銀座で盛業のクラブを経営し、たまたま来日した米国副大統領閣下の性的友だちの役目も引き受け、果ては入水自殺をとげ、死んだと思えばまた現れて、いまは四国山中の大きい森のなかのその村で巫女たらんとしている自分の双子の妹に向けて、呆れるほどの情熱をもってしたためる六通の長い手紙、これが語りの層である。
物語の層は、その村の古代から現代にいたる神話と歴史である。とても要約は不可能であるが、その要所をひとまず押さえれば、藩政の改革に力をあらわしたので、かえって旧勢力と対立することになり、ついには敗れた若侍たちが、一艘の船に乗り込み、彼等独自の未来を開き得る土地をめざした、というのが神話の発端だ。彼等は沿岸をめぐり河口に達し、行く手を塞ぐ大岩塊を引率者の、創造者であり破壊者である「壊す人」(この三文字は終始、肉太活字で表記される)が爆破し、谷間の小盆地に入る。とたんに五十日の長きにわたって降りつづく大雨。「流され王=貴種流離譚」「ノアの大洪水」などの神話素(物語素ともいい得る)が、この物語層の下に隠し層としてひろがっており、やはりこれは「変わり玉」の比ではない。人智を尽くした精巧な仕組みである。そしてあらゆる局面にたちあらわれる壊す人の夢の層。
(次ページに続く)