コラム

均質な時間と空間の中で

  • 2017/07/05

では、詩人たちはどのように時間の砂化と戦っているか。歌謡曲の詩は、例外なく、時間軸の流れの方向に忠実である。ときおり「回想法」や「未来法」が用いられ、時間を意識することはあっても、そのほとんどは〈時は流れ去るもの〉と固定して捉えている。時間に逆らう役目はむしろ曲にゆだねられているのである。そういうなかで、中島みゆきはかなり特異な存在の作者で、彼女は常に時間の頭と尻尾とをくっつけようと試みている。

なにもことばに残る 誓いはなく
なにも形に残る 思い出もない
……(だがしかし)忘れられない歌を 突然聞く
やっと忘れた歌が もう一度はやる(「りばいばる」)

まわる まわるよ 時代はまわる
喜び悲しみくり返し
今日は別れた恋人たちも
生まれ変わって めぐりあうよ(「時代」)

右(ALL REVIEWS事務局注:上)のわずかな引用によっても見てとれるように、彼女は時間を堂々めぐりさせて砂化を防こうとしているのであるが、「現代詩特集」と銘打った今月号の「文藝」(昭和五十五年二月号)で、天澤退二郎は興味深い実験を行った。「帰りなき者たち」と題した長編詩に天澤は次に引用する部分を嵌め込んだのだが、この部分には「中島みゆき風に」と、はっきり但し書きをしているのだ。

ー中島みゆき風にー
やたらに目の大きな背高の女の子が
ガードレール跨いで来ようとして
くりかえしくりかえし殺される
ぼくはこちら側の珈誹店の窓にいて
くりかえし女の子をスケッチしてる
早く来てくれ早くおいでよ女の子
でもまだ来ちゃいけないまだ
もういちどもういちど殺されておくれ
ぼくのスケッチはまだできない

時間はくりかえす、と名指しで指名された以上、時間側でも白っばくれて挨拶なしで通りすぎるわけには行かない。いやいやながら繰り返してみせる。私たちが「時間はくりかえす」と唱えている間は、仕方なしにぐるぐるまわりをしていてくれるが、その期間は、時間は均質ではなくなる。すなわち私たちは詩人の認識を借用して、流れ去る時間を、ほんのしばらくの間ではあるが、小石ぐらいには固めることができたのだ。天澤作品の「くりかえしくりかえし殺される」という勁い表現が、それを可能にしたといえる。

いやに時間にこだわっているようだが、詩人たちの武器の主なひとつであるイメージ理論が、イメージという時間氷結法によって、なにものかを非・時間的に存在させようということである以上、仕方がない。そういえばロマン・ヤコブソンという音韻論における現代の代表的な理論家が、マヤコフスキイの詩によせて、

時間を追い越し、時間の方に追い着くよう急き立てる者としての詩人

ともいっている。今回は結尾まで時間にこだわりつづけようと思う。

『井上靖全詩集』(新潮社)におさめられている二百編近い詩を貫通する主題もまた時間である。

天子が即位すると、盗掘団は直ちに、その日から、その天子が将来葬られるであろう想定の墓所に向って、秘密の地下の道を掘り始めるという。もちろん古い中国の話だ。作り話にしても、私はこの話が好きだ。この話を思い出すと、いつも勇気を感ずる。私もまた掘り始めなければならぬと思う、死者の静けさと、王冠の照りの華やぎを持つ何ものかに向って。たとえば、私の死後五十何年目かにやってくる、とある日の故里の落日の如きものに向って。(「盗掘」)

古い中国の話を知って勇気づけられたのは詩人ばかりではない、詩人の視点を共有して均質時間と対峙するとき、私たちもまた勇気を感ずる。均質時間を追い越すことに成功した瞬間、それは疎外するものではなく、大江健三郎を借りれば、なにか「懐かしいもの」にかわるからである。私たちがいま植えれば、孫たちがそのしたたるような緑を眺め仰ぐことになる樹木、そのような、個人の生命の長さを超えるなにか永続するもの、それが詩を読むという行為を通して見えてくる。時間は液化してゆっくりと流れはじめる。

大岡信は『雷鳴の頸飾り』のなかで、次のような感動的な逸話を紹介している。十年前、脳血栓で病院に運ばれた瀧口修造は、医師や看護婦に隠れて、ある書評紙の「日録」欄のために「二月某日、ココまで書いたところでわが身に急変あり、ああこれが私の『絶筆』というものになるのかも知れぬぞ……と思いながら救急車のタンカから夜明けの空をあおぐ」と書きつける。さて、

……「二月某日」。ここでもしこれが「絶筆」となってしまっていたら……。病気がやや快方にむかってから、そのことにふれて、瀧口さんと私たちは笑いあった。笑いあうほかに仕様のないデッドエンドというものがあるのだ。しかし、「二月某日」という文字が絶筆ではたまらない、という気持ちが、結果として瀧口修造の病状にいちじるしい好影響を与えたようである。少なくとも、倒れたとき以後、おどろくべき克明さで、瀧口さんは死力をつくして刻々の出来事を記憶しようとした。そのことが、脳に最も望ましい反援力と活力を注ぎこむことになったのだ、と医師はいったそうである。

この逸話は詩人の覚悟というものを私たちに示してくれている。この覚悟をもって詩入たちは均質時間に雄々しく立ち向かうのだ。現代詩の難解さは、その戦いの困難さを物語っていよう。均質時間の流れはそれほど烈しく、難解の鎧をようわねば敗北は必至である。たとえば、

何シニ来タ
地獄カラ火貰イニ来タ
ライター貸シテヤレ。(瀧口修造「曖昧な諺」)

ということばの堅固な列、これと私たちは何回でも向かい合って、その難解さと顔なじみにならなければならないだろう。むろん均質時間を追い越すために、である。
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