コラム

均質な時間と空間の中で

  • 2017/07/05

さらにもうひとつ、地形学的な層がある。彼等の拓いた村は、中心に谷川のある小さな町場、それから順に外へ、耕地が、果樹と雑木の疎林が、杉の木が、「死人の道」と称する敷石道が、そして深い原生林が取りかこむという構造を持つが、この構造は女性性器と同質である。つまり壊す人たちは、時をさかのぼって母親の胎内に入ったのである。ここにもオイディプスの神話素が組み込まれているが、そういえば最初に壊す人を殺害することになる「尻の割れめから眼玉の覗く人間」シリメは、ひとつ目小僧→オイディプスの神話素を担っている。この長編は四百九十三回ばかり笑わぬと読み終えられないほど、おもしろい小説であるが、しかし読み終えてから懐かしい想いで心が満たされたようになるのは、人間が、その長い歴史を通してずっと温めてきた神話素や物語素など、物語の祖型がふんだんに、そして戦略的に溶かし込まれているからにちがいない。四百九十三回ばかり笑わぬと……と書いたが、これは当てずっぽうな数字ではない、四百九十三とはまたこの長編の頁数をも示している。すると一頁に一回笑う勘定か。じつはそうではなく、笑いの半分は中盤の、大日本帝国陸軍との五十日間の大戦争に費やされるはずである。

……村=国家=小宇宙が、明治初年の「血税一揆」を機会に、すべての成員の戸籍登録において、二重制のカラクリを仕組んだこと。つまり同一の戸籍をふたりずつの人間が共有して、確かにわれわれの土地の人間も大日本帝国に組こまれはするが、しかしそれは成員の半分だけのことにとどめる発明。……

この発明が大日本帝国の激怒を買い、全面戦争の原因となったのである。〈両義性〉ということばが使われるようになって何百年になるかわからぬが、このことばをこれほど肉太に具体化した作家がこれまで世界にあっただろうか。おそらくルイス・キャロル以来のことだろう。とにかくこの五十日戦争は滑稽で、悲惨で、そして感動的である。なぜ感動的であったのか。あれほど連戦連勝を重ねた村=国家=小宇宙があっさりと白旗を掲げるのは、大日本帝国側が森へ火を放つ挙に出ようとしたときだった。つまり彼等は樹木を守ったのである。樹木乱伐時代に生きる私たちへの、これは命がけの行為だ。樹木を伐り倒すことは象徴的な親殺しだという説(ケネス・バーク)があるが、だとすれば私たちは親殺し、そのむくいが均質空間地獄ということになる。

樹木や森が更生の源だとする層もこの長編には組みこまれており、その意味でも作者は均質空間にオアシスを、文字通り「樹立」したのである。

この均質空間を経過して行くのは、言うまでもなく均質化された時間である。日常は、いわば巨大な砂時計で、その胴のくびれを、情け容赦もなく、またなんの感動もなく、均質に砂化された時間が見る見るこぼれ落ちて行く。私たちはその流れの凄まじさに圧倒され、立ち直る術(すべ)もなく、ただ茫然と立ち尽くすばかりだ。あるいはむしろ、砂時計の存在を忘れようとつとめ、自らの持ち時間を砂にかえて忙しく立ち働く。さて、この均質時間の流れをせき止めてくれるものはだれか。それは詩人たちである。

大江健三郎が、たとえば肉太活字の多用や、「妹よ」という絶え間なく繰り返される畳句によって、テキストをとかく「透き通ったもの」として受け取る癖のある受動的な読者たちに絶えず衝撃を与え、それを通じてついには読者に〈読む〉という行為が、積極的な生理行為であることを気づかせ、読者を均質空間から隔離してくれたように、詩人たちは千変万化の、言語上の技巧を尽くして、時間軸をねじ曲げ、時間の砂化を防こうと奮戦する。

大岡信は、故瀧口修造に捧げられた作品集『雷鳴の頸飾り』(書肆山田)のなかで、瀧口修造の大きな仕事の意味にふれながら、

……世界はますます流通性ある価値のみを価値として尊重する方向へ動きつつあり、それゆえに一層、流通価値のないものの有する詩的な価値――いいかえれば、精神の、精神による、精神のための作品のもつ価値――への渇望は、出口を求めて深く精神の深層部をうずかせているからである。……(「瀧ロ修造控」)記しているが、右(ALL REVIEWS事務局注:上)を均質時間への反逆のマニフェストと読みかえても、そうたいしたまちがいを犯すことにはならないだろう。

(次ページに続く)
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