井上 ひさしHISASHI INOUE
さらにもうひとつ、地形学的な層がある。彼等の拓いた村は、中心に谷川のある小さな町場、それから順に外へ、耕地が、果樹と雑木の疎林が、杉の木が、「死人の道」と称する敷石道が、そして深い原生林が取りかこむという構造を持つが、この構造は女性性器と同質である。つまり壊す人たちは、時をさかのぼって母親の胎内に入ったのである。ここにもオイディプスの神話素が組み込まれているが、そういえば最初に壊す人を殺害することになる「尻の割れめから眼玉の覗く人間」シリメは、ひとつ目小僧→オイディプスの神話素を担っている。この長編は四百九十三回ばかり笑わぬと読み終えられないほど、おもしろい小説であるが、しかし読み終えてから懐かしい想いで心が満たされたようになるのは、人間が、その長い歴史を通してずっと温めてきた神話素や物語素など、物語の祖型がふんだんに、そして戦略的に溶かし込まれているからにちがいない。四百九十三回ばかり笑わぬと……と書いたが、これは当てずっぽうな数字ではない、四百九十三とはまたこの長編の頁数をも示している。すると一頁に一回笑う勘定か。じつはそうではなく、笑いの半分は中盤の、大日本帝国陸軍との五十日間の大戦争に費やされるはずである。
……村=国家=小宇宙が、明治初年の「血税一揆」を機会に、すべての成員の戸籍登録において、二重制のカラクリを仕組んだこと。つまり同一の戸籍をふたりずつの人間が共有して、確かにわれわれの土地の人間も大日本帝国に組こまれはするが、しかしそれは成員の半分だけのことにとどめる発明。……
……世界はますます流通性ある価値のみを価値として尊重する方向へ動きつつあり、それゆえに一層、流通価値のないものの有する詩的な価値――いいかえれば、精神の、精神による、精神のための作品のもつ価値――への渇望は、出口を求めて深く精神の深層部をうずかせているからである。……(「瀧ロ修造控」)記しているが、右(ALL REVIEWS事務局注:上)を均質時間への反逆のマニフェストと読みかえても、そうたいしたまちがいを犯すことにはならないだろう。