花柳小説の変種
わが日本文学に花柳小説というジャンルがあった。井原西鶴、為永春水あたりにはじまり、紅葉、荷風、鏡花、舟橋聖一に及ぶ一大系列だ。あった、といった。つまりいまはもうないのだ。僕の考えでは、昭和三十三年の大岡昇平の『花影』で命脈が尽きたことになるのだが……。
小説家は女が描けねばならない、という牢固とした通説もあった。僕が小説家修業(?)をしていた一九七〇年代、まだそれが幅をきかせていたが、いまではもうあまり聞かれない。
明治に始まる近代小説は、西欧輸入小説の圧倒的影響下に生まれた。しかし、近代的個人のスーパースターたる西欧小説の主人公たちは、キリスト教の神との対決の中から造形されたものだ。山川草木すべてに小さな神々の宿るアニミズム世界観を持つ極東の島国の人間にとって、医学や法律、官僚制度はそっくり移入できても、小説のこの主人公だけはいかんともしがたかった。
ところが、わが日本文学には色好みの伝統があった。そこで編み出されたのが、神ではなく、女と相渉(あいわた)り、苦闘する主人公だ。それも相手がしろうとでは具合が悪い。身を売る女、つまりくろうと女に翻弄されながら何ごとかを学んでゆく、というスタイルだが、それにはすでに先人、西鶴や春水がいた。花柳小説だ。
僕は意外なところにこれの変種を発見して驚いたことがある。一般的には教養小説(ビルドゥングスロマン)とみなされるだろう、井上靖の自伝的小説の『あすなろ物語』だ。
話は、主人公梶鮎太の天城山麓の村の少年時代から始まり、沼津とおぼしき町の旧制中学時代、北国の城下町(金沢)での旧制高校時代、九州の大学時代、中国を転戦する二度の応召をはさんだ戦中から戦後にかけての大阪での新聞記者生活が語られ、焼跡の闇市の十字路で星をみあげたところで終わる。
六人の女が主人公の成長に応じて登場する。小学生時代は祖母りょうの姪・冴子。色白く、目は大きく澄んで、「勉強する人を誘惑するの、面白いわ」などという物言いをする。あすは檜(ひのき)になろうとして、永久に檜になれない翌檜(あすなろう)の木のことを、鮎太に最初に教えるのがこの冴子だ。彼女は大学生と天城山中で心中する。
二人目の女は、沼津の中学時代に下宿した寺の娘・雪江。大柄で、県の陸上競技の記録保持者だが、妙になまめかしいところがある。三人目が高校時代からあこがれ続ける若い未亡人・信子。驕慢で、美しい。鮎太は、あすなろう、あすなろう、とつぶやきながらその魅力に圧倒されてゆく。四人目は新聞社の先輩の妹・清香。清香は、狐火の取材に来た鮎太を夜の山道で誘惑する。彼は人間なのか狐なのかわからないまま彼女を抱く。これで信子という憑きものが落ちた、と変な具合に鮎太はほっとする。五人目と六人目は端折(はしょ)ろう。
いずれにせよ六人とも娼婦・悪女タイプ。主人公は彼女たちとの交渉を通して、世間というもの、あるいはさらにその奥に隠された情念の世界を学ぶ。やがて戦争も終わり、闇市の十字路に立って、雑踏する日本人たちをみながら、いまや、みんなあすなろだ、と感慨にひたる。
ところで、この主人公、戦争中に結婚して二人の子供をもうけている。しかし、そのことに触れているのは作中わずか二、三行。これ如何に?
僕がこれを花柳小説の変種といったゆえんだ。結婚相手にいっさい触れられていないのはそのせいなのだ。奇妙な味わいを持った自伝的教養小説であるといえる。
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