対談・鼎談

NHK取材班、馬場 あき子『絵巻切断―佐竹本三十六歌仙の流転』(美術公論社)|丸谷 才一+木村 尚三郎+山崎 正和の読書鼎談

  • 2022/01/02
絵巻切断―佐竹本三十六歌仙の流転 / 高島 光雪,井上 隆史,馬場 あき子,NHK取材班
絵巻切断―佐竹本三十六歌仙の流転
  • 著者:高島 光雪,井上 隆史,馬場 あき子,NHK取材班
  • 出版社:美術公論社
  • 装丁:単行本(345ページ)
  • 発売日:1984-07-01
  • ISBN-10:4893300415
  • ISBN-13:978-4893300416
内容紹介:
大正時代、あまりの高価さゆえに切断されて売られた幻の国宝「佐竹本三十六歌仙絵巻」。1枚数億円といわれる37枚の歌仙絵の所有者は、いったい誰か?それぞれの流転の軌跡を追うとともに、大正・昭和の大富豪たちの知られざる素顔に迫る傑作ドキュメント。

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山崎 大正八年十二月二十日、東京品川の御殿山にあった益田鈍翁邸において「佐竹家三十六歌仙」とよばれる絵巻物がばらばらにされました。

鈍翁は、三井財閥を事実上おこした、明治の財界の有力者ですが、この人の音頭取りで、秋田の佐竹家に伝えられていた歌仙図絵巻、鎌倉時代と推定される貴重な美術品をみんなで分けて持とうということになりまして、集まったのが、住友財閥の当主、住友吉右衛門、野村財閥の創始者・野村徳七、三井合名の理事長・團琢磨、パルプ王とよばれた藤原銀次郎……といった、現代にも名を残しているような実業家たちでした。

それから時は過ぎ星は移り、戦後に至るまでこの三十七枚(三十六歌仙プラス住吉明神)の絵は所有者を転々と変え、しかしどうやら無事でいるらしい。その流転のさまは、一つの美術品の運命であると同時に、日本の経済界の歴史をよく表しているわけです。

このたいへん面白い素材に着目して、NHKの取材班が絵巻の現在の行方を捜し、過去の歴史を紹介するというユニークなテレビ番組を作りました。私は見逃したのですが、なかなか評判がよかったようです。それを後に活字の形でまとめたのが、この本です。

そういう特異な出来方をしていますので、本としてはいろいろ問題点があります。
ただ、何といってもこの素材は魅力的でして、読んでいて退屈しません。

行われた行為はまことに野蛮でして、貴重な文化財をばらばらにしたのみならず、ある所蔵者にいたっては、一枚の絵を切り貼りして構図すら変えている。しかし逆説をいえば、その野蛮があったからこそ、この作品が今まで残ったといえるのかもしれません。

そこでまず注目したいのは、一つは大正ブルジョア趣味というのは何であったかということです。簡単に言うと、全員が成金なんです。だからみんなどこか不安なのですね。巨万の富をつくった、しかし自分は氏素姓もなく、その一生はやがて終ってしまう。その時に、流れ去る金や事業ではなく、目に見え、手で触れられる具体的なもの、日本人が繰り返し愛玩してきた、伝統を凍結させたような品物で残したいと思う。そういうちょっと哀しいような熱情が働いている。

丸谷
清盛が平家納経をつくったようなものですね。

山崎 新興武士の清盛は藤原公家文化の真似をすることで自分を確かめたんですが、本質的には同じことをやるわけですね。
そうしてこの不安な連中が美術品を仲介に互いに集まります。いまや三十六歌仙の断簡は、床の間に掛けてお茶を楽しむための茶道具になっているわけです。このこと自体が実は伝統的で、茶の湯は室町時代に婆娑羅(ばさら)大名という連中が発明したものなんですね。やはり成り上がりの野蛮人たちが、社交を通じて自分を洗練し、自己を確認しようとしたわけです。

三十六歌仙の最初の所有者たちの多くは没落して、新手の新興成金、たとえば昭電疑獄の日野原といったような人たちが所有者になります。なかには、吉兆の湯木さんのような本当の茶人もいますが、大部分の人に共通しているのは、絵を鑑賞することには、ほとんど興味がない。美術品は好きだとはいいます、しかし絵のよしあしがどうこうというより、それを持つことに不思議な熱情を燃やしている。裏返していえば、そこに何か、その人たちが持っていないものの大きさを感じさせる。

丸谷 ………。(笑)

山崎 彼らが使う言葉がみな同じだというのも面白いですね。つまり三十六歌仙を手にいれたのは「縁」、えにしだというんです。美術品との出会いをまるで男と女の出会いのように感じている。

かつての大貴族ならば縁もへったくれもない。自分の趣味で画家に描かせ、それを所有したでしょう。しかし、いまではそうはいかなくなって、自分より大きなものにめぐり逢い結ばれた縁に、生き甲斐を感じているんですね。それはまた、抽象的なもの、超越的なものに実感をもてず、そのかわり何か具体的なものに結びつかなければ気がすまない、多くの日本人の感情を代弁しているといえます。「玩物喪志(がんぶつそうし)」という言葉がありますが、この人たちは遂に物を玩(もてあそ)ぶことで、志にかわるものを手にいれたんじゃないか。そんな気がしました。

丸谷 話が高級になったので、高級なところから始めます。(笑)芸術に接するとき大事なのは、一種のデカダンスってものだと思うんです。デカダンスを欠如した人間と美の関係はやはりつまらないという気が、ぼくは、どうもするんです。この佐竹本三十六歌仙の部分を持っているお金持たちは、デカダンスがまったくないって感じね。

山崎 そうですね、みんな立志伝中の人物ですから。

丸谷 うん。保管者としては、それがいいのかもしれませんねぇ……。(笑)という感じなんですけれども、でも、この本は、テレビの企画の着眼点がよかった。それがすべてですね。本そのものとしては、テレビの余りで価値がある、そういう本ですね。
この本がダメなのは、第一、書き方が下等である……。

木村 もう始まった。(笑)

丸谷 「色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける」といって、小野小町が語り出す。
〈あれはもう六十年以上も昔のことになりました。
あの日、そうあの日から私たち三十六歌仙は思いもよらない数奇な運命にもてあそばれることになったのでございます。――色さえ見せず、移ろいゆくものは世の人の心――
皮肉なことに私の詠んだこの歌そのままに、私どもは人の世の栄枯盛衰、有為転変を否応なく見ることになったのでございます〉

もう厭になったから、これ以下、引用するのはよします。(笑)とにかく一冊の本を書こうという人間が、こういうバカバカしい文章を筆にしてはいけない。もっと文章の修業をきちんとして、こういう種類の文章は、下等で、くだらなくて、低劣であるということが分るだけの感覚を磨いてから本を書いてもらいたい。

たとえばもう少し小さなことでいえば、著者は「リッチマン」という言葉を乱用する。「日本一のリッチマン」とか「リッチマン中のリッチマン」とか、この語感の低劣さ。NHKには、新聞の記事審査室にあたるものが多分あるだろうと思いますが、しかしその審査室は、こういう幼稚な言葉づかいにいっぺんもダメを出したことがないんじゃないか。だから、こんな文章が出てくるんでしょう。

さらに、何かといえばすぐに「東京行進曲」のような流行歌の歌詞をもち出して、それで時代色を説明したつもりになっている。実に安易で趣味が悪い。
それから……。(笑)今日は徹底的にやるよ。(笑)

これは絵巻物の本である。にもかかわらず、最初の口絵には、切断に際して全容を後世に遺すために復元・製作されたという二巻の巻物の、その外側だけの写真が出ている。さらに口絵として三十六歌仙の、多分その復元本から取った顔の部分――説明がないから分らない――が出ている。それはせっかく色刷りにしているのに、和歌と絵を並べた色刷りの頁はない。これは本づくりの見識を疑われてしかるべきでしょう。

さらに、三十六歌仙を最初に選んだのは藤原公任(きんとう)なんですが、その三十六人とこの佐竹本の三十六歌仙が同じかどうか、歌は同じかどうかということを全然考慮にいれてない。つまり、順序からいえば、まず和歌があり、和歌をつくった歌人があり、その肖像画があって、それで三十六歌仙絵巻が成立するわけなのに、そのへんを全然感じとっていないらしい。

さらに……まだあるんですけれども、ちょっとこのへんで休みますから、木村さん、お願いします。(笑)

木村 もう言うことはありません。(笑)この本は多分、三十六歌仙が主題ではなく、明治から現代にいたる日本のブルジョアジーの生態を描こうとしたものでしょう。「お金はいくらしましたか」「いま売るといくらくらいになりますか」と、全編金の話で貫かれている。「どうしてきみは金、金というんだ」と所蔵者が質問者に怒る場面も出てきますね。絵巻物の辿った運命も悲劇(ドラマ)でしたが、扱われ方も悲劇的だった。(笑)

テレビで見たときは、ミステリー映画の犯人さがしのような見ごたえがあり、面白かったんですが、本にするとシラケるんですね。この本の中では絵巻物の切断の箇所〈シャーッ。悲鳴にも似た音をたてて、人麿の絵は切りとられた、そして……。シャーッ、シャーッ。絵巻物は次々と切り裂かれていく〉が最初に印象的でした。

それから、日本人の個人主義的傾向がこの本には実によく出ている。現在の所有者で名前を公表したくないのが、三分の一の十二もある。十は個人所蔵、二は法人所蔵なんですね。

フィレンツェのウフィッツィ美術館にいきますと、ボッティチェルリの「ビーナスの誕生」などが、すぐ手がとどくところに置かれていて感激するんですが、この絵巻断片の所有者たちは、四十年に五、六回とか、多くてせいぜいで一年に数回しか見ない。美術館にいれると絵が傷むというのが口実ですが、それだけではないと思います、ケチなんですね。徹底的にケチで宝物は全部しまってしまう。人目にふれると「目垢がつく」という言葉を、私はここで初めて知りました。要するにこの本には、日本人の私物化の意識もよく出ていると思います。

山崎 この本が本としてあまりよくないということは、私も最初にすでに触れておりますが、具体的に少し批判をします。
いま、木村さんがせっかく褒めて下さった切断する部分、まるで見てきたように書いてありますけれど、それから二つあとの章に、当時の生証人という老人が現れて、そういう場面はなかったと語っている。

木村 そうですね。

山崎 四十余人の目前で経師屋(きょうじや)が紙切包丁でシャーッと切ったなどというのは大嘘で、鈍翁邸へ行ったらもう全部ばらばらにしてあった。しかも、これは切ったのではなく、糊をはがしたのだとちゃんと書いてある。こういう矛盾を矛盾だと明記せずに並べておく無神経さ。この際ですから、本に関して一席ぶちますと、本というものは時間の順序で書いてあっても、内容を一望のもとに眺めうるものです。具体的にいえば、戻って読み返せる、二度読むことができるという性質をもっている。したがって、話の種がその瞬間ごとに面白ければいいというものではないので、書く側にはそれとは正反対の神経の使い方、つまり同じことを二度ずつ語るという念の入れ方が必要なんですね。物を書く人間はみんなそれで苦労している。本当はテレビの人だって、そういう感覚が必要だと思うけれども、少なくともこの本にはどうもそれが欠如している。

丸谷 ビデオ以前のテレビ関係者が書いた本なんですね。(笑)

山崎 第一、文章の品がどうのという前に、何がなんだか事実として意味のわからない文章が随所に出てきます。
益田鈍翁、幼名徳之進が外国へ行った。〈会計係として随行した父の家来益田孝の名前でヨーロッパに渡った〉、これはどういう意味なのかさっぱりわからない。

ともかく、これは反面教師でして、本というものは、テレビ番組をただ活字にしただけではできないよ、ということを教えてくれた点において功績が大である。

木村 なるほど。

山崎 しかし、それと同時に、私は、この素材にはやはり惹(ひ)かれるんですね。所有者たちの生の声を聞いてみると、何か身につまされる。私を含めて、近代の日本人は知識人でも政治家でも、みんな成り上がりですからね。私はもちろんこんな絵は買えませんけれども。

丸谷 それはそうでしょう……。(笑)

山崎 こういう絵に対して不思議な情熱を燃やしている人たちの、あえて繰り返しますが、誇りじゃなくて、寂しさを感じる。木村さんがおっしゃったように、骨董は見るものではなく、持つものですね。美術と骨董とは違う。美術は見るためにある。骨董は持つためにある。しかしその“持つ”とは一体なんだろうか。何百年もの間、人々が手で触れ眺めて愛(め)でたもの、自分を超える長い生命に属するもの、それを自分が力まかせに持ちたい――。

これはやはり、何かを本当に“持って”いない人間のお守りというか、神様、仏様の類ですね。(笑)祠(ほこら)にいれて鍵をしめておくことで、何か安心を与えてくれる。

木村 古くは男が女を囲った、その気持に通じるものがあると思いましたよ。

山崎 でも、女性はしまっておくだけではない。やっぱり出して鑑賞するでしょう。(笑)

木村 ええ。しかし人目には触れさせたくない、自分ひとりのものにして置きたいという気持です。

山崎 でも、この所有者の中には、自分も見ないって人がいるんでしょう。

木村 そう。女性もやはり同じで、あまり見てばかりいると、早く死んでしまう。(笑)

山崎 木村さん、よほど強い視線をおもちなんですね。(笑)

木村 この本に出てくる人物の中で、一番印象に深かったのは、山本唯三郎という人のことです。佐竹家から売りに出された「三十六歌仙絵巻」を「よし、買う、置いてゆけ!」の一言で一括して引きうけたという船成金です。

山崎 だだら遊びをやったあげく、朝鮮へ虎狩りにいって「虎大尽」とよばれた男ですね。それが恐慌と同時に没落して、彗星のごとくに消えていく。

木村 日本の実業家の本質が、ここにみごとに出ているのではないかと思いました。

山崎 つまり、虎大尽という本質があまりにつらくて寂しいから、それに対するお守りなんですね。しかし、この本によると、戦後にはこういう個人がいなくなって、絵巻は会社の所有になって行く。哀しいような“持つこと”への情熱さえ、大衆化によって禁じられて行くわけです。

丸谷 とにかく、これで一応言い終ったようなもんですけれど、(笑)この本のおしまいに、歌人が歌の評釈を書いています。
本文よりはずっとましなものですが、しかし、ずいぶん現代短歌風の解釈だと思うんですね。
凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)の和歌「いづくとも春のひかりはわかなくにまだみ吉野の山は雪ふる」。
この歌は「躬恒集」の冒頭にある歌で、眼前の自然をうたったものではなく、わが身の不遇を歎いた歌である、ということを詞書(ことばがき)によって言っています。一応その通りでしょう。でも、それだけじゃないんですね。

これは書いてありませんが、「わかなくに」に「若菜」が秘めてあります。「若菜」がすでにめでたいものである。「春の雪」も豊年の兆しで、めでたい。そして家集の巻頭にある歌はめでたい歌にきまっているんです。だから、これは寂しいとか、寂しくないとかいう個人的なことより先に、家という共同体を通じて、もっと大きな共同体を祝福している和歌です。そのことをこの注釈者は忘れています。

藤原敏行の「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」。〈王朝びとの敏行の耳は、その微妙なちがいをききわけて、ああ、「もう秋が来たのだ」と心のゆらぎを覚えているのである〉で終っています。その解釈が間違っているとはいわないけれど、これは、四季が正しく循環していくということによって、日本の風土を祝福した歌ですね。そういう古代的・中世的精神風土をもう少し捉えたうえで、王朝和歌を鑑賞してもらいたかった。

というのは、もともと三十六歌仙絵巻は文学作品や美術品である前に、さっき山崎さんもおっしゃってましたが、呪術的な存在、呪具であったはずです。そのことを忘れて和歌を解釈するのは、やはり筋違いなんですね。

絵巻切断―佐竹本三十六歌仙の流転 / 高島 光雪,井上 隆史,馬場 あき子,NHK取材班
絵巻切断―佐竹本三十六歌仙の流転
  • 著者:高島 光雪,井上 隆史,馬場 あき子,NHK取材班
  • 出版社:美術公論社
  • 装丁:単行本(345ページ)
  • 発売日:1984-07-01
  • ISBN-10:4893300415
  • ISBN-13:978-4893300416
内容紹介:
大正時代、あまりの高価さゆえに切断されて売られた幻の国宝「佐竹本三十六歌仙絵巻」。1枚数億円といわれる37枚の歌仙絵の所有者は、いったい誰か?それぞれの流転の軌跡を追うとともに、大正・昭和の大富豪たちの知られざる素顔に迫る傑作ドキュメント。

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【文庫版】
三十六歌仙絵巻の流転―幻の秘宝と財界の巨人たち / 高嶋 光雪,井上 隆史
三十六歌仙絵巻の流転―幻の秘宝と財界の巨人たち
  • 著者:高嶋 光雪,井上 隆史
  • 出版社:日本経済新聞出版
  • 装丁:文庫(250ページ)
  • 発売日:2001-06-01
  • ISBN-10:4532190584
  • ISBN-13:978-4532190583
内容紹介:
大正時代、あまりの高価さゆえに切断されて売られた幻の国宝「佐竹本三十六歌仙絵巻」。1枚数億円といわれる37枚の歌仙絵の所有者は、いったい誰か?それぞれの流転の軌跡を追うとともに、大正・昭和の大富豪たちの知られざる素顔に迫る傑作ドキュメント。

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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
三人で本を読む―鼎談書評 / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
三人で本を読む―鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • ISBN-10:4163395504
  • ISBN-13:978-4163395500

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初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1984年11月号

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