野間宏の超大作に挫折し手に取った虎の巻
昔はそんなことはなかったのだけれども最近は、分厚い本を目の前にすると、その分厚さに怯(ひる)んでしまって、なかなか手にとらないようになった。いったいなぜなのだろうと考えるに、「こんなものを読み始めたらとんでもないことになる。人生が無茶苦茶になってしまう」とまず思ってしまうからであろう。しかし本当にそうだろうか、とも思う。というのは、そんな分厚い本を躊躇(ちゅうちょ)なく読んでいた頃、人生が無茶苦茶になってしまったかというと、そうでもないからで、それどころか、あのときにあれを読んでおいてよかった、といまでも思うとが多い。
しかも、そうして本を読まないで空いた時間に有意義なこと、例えば田畑を耕作するとか、社会奉仕をするとかそういうことをしているかというと、そういうこともなく意味も目的もないままにインターネットを閲覧、ショッピングモールに行き、粋な本麻の角帯を見て、「高いのお」と呟(つぶや)いたり、特売の冷凍チャーハンを見て「安いのお」と呟いたり、或(ある)いは、鮭の燻製(くんせい)の作り方を学んだり、チャンバラを見るなどして、無駄としかいいようのない時間を過ごしている。ならばその本が分厚いからといって躊躇する理由がどこにあろう。どこにもない。「とんでもないことになってしまう」というのが錯覚であって、むしろ読まないでいる方が、とんでもない。
そう思って読み始めたのが分厚いうえにも分厚い、野間宏の『青年の環(わ)』という小説で、原稿用紙8000枚に及ぶというのだから、その分厚さたるや尋常ではない。しかもこの小説はただ長いだけではなく昨今は聞き慣れなくなった全体小説、すなわち、人間が生きるこの世の全体を小説に書こうとした小説で、それだけ読み甲斐(がい)、読みごたえがあるに違いない。
そう思って勢いこんで読み始めたのだけれども、正直に申し上げる、第1部「華やかな色彩」の初めの方で玉砕してしまった。というのはひとつには他に急ぎ読まねばならぬ本ができて集中できなくなったからなのだけれども、根本には私の読む力の不足というのがあるに違いなく、こういうときはどうしたらよいだろうか。
参考になりまくり
と考え込み、思い出したのは昔、スーパーファミコンで遊んでいて、どうしても先に進むことができず、藁(わら)にもすがる思いで攻略本を買ってきて読むと、自分が重要な点を数多(あまた)、見落としていたことに気がつかされ、「気づきをありがとう」と感謝して再び取り組んだところ、嘘(うそ)のように円滑に進むことができた、という一事であった。それで読んだのは、『三島由紀夫「豊饒の海」VS 野間宏「青年の環」戦後文学と全体小説』(井上隆史著、新典社、1400円)で、この本には全体小説がそもそも西洋においてどのようにして始まって、どのようにして受け継がれ、そしてまた我が朝においてどのように受け入れられ解釈され、そしてまた実際に書かれたかということが簡潔にわかりやすく書かれてあり、そしてそのどのように実際に書かれたか、というところで、『豊饒の海』と『青年の還』が取り上げられている。
それでどうだったかというと、全体小説が目指す、人間の生と世界の全体というものがどんなものか、ということがこの本を読めば概(おおむ)ねわかり、それによりいまの私たちとは感受性がそこそこ隔たった昭和14年の大阪に生きる人たちが、いまも小説の中で生きてその世界し関わりを持ち続け、一所にとどまらず互いに影響しつつ変化・変容するという、もはや神秘ともいうべき状態の秘密の一端が解き明かされたような心持ちがした。
その過程でそれらの小説が発表当時どのように読まれ、或いはまた西洋ではどのような解釈がなされ、それを鏡に映して作者の読み方も示されて勉強、参考になりまくった。
これで俺も『青年の還』いけるで。と思う。思うのだけれども、この間、『カラマーゾフの兄弟』全4巻も読み始めてしまい、『週刊エコノミスト』の原稿の締めきりとか大丈夫だろうか、という不安感もあるが、まあ、大丈夫でしょう。といまは思っている。