民主主義と社会秩序はテクノロジーに破壊されてしまうのか?
ジェイミー・バートレット
テクノロジーの恩恵と引き換えに蝕まれていくもの
来たる数年のうちで、私たちが知る民主主義と社会秩序はテクノロジーに破壊されてしまうのだろうか、それとも政治がデジタル世界を従えるのだろうか。いまのところテクノロジーがこの戦いを制しつつあるのは、日を追うごとに明らかになりつつある。足腰が衰え、弱体化した政治をテクノロジーが押しつぶそうとしている。なぜ、このような事態に陥ってしまったのか、そして、この流れはどう変えることができるのか、本書に書かれているのはその点だ。
断るまでもないが、ここでいう「テクノロジー」は、あらゆる意味でのテクノロジーということではない。「テクノロジー」という言葉は、二語のギリシャ語、すなわち「技巧」を意味する「テクネ」と「研究」を意味する「ロゴス」の組み合わせから成り立っている。同じように「民主主義」もまた、「デモス(民衆)」と「クラトス(権力)」の二語から成り立つ。したがって、単に「テクノロジー」と言ってしまうと、現代社会におけるすべての技術をもれなく意味してしまうことになる。
本書で言及されているテクノロジーは、旋盤でもなければ、力織機でもない。自動車やMRIでもなければ、F−16 ファイティング・ファルコンでもないのだ。本書で語られている「テクノロジー」は、シリコンバレーと関連するデジタル・テクノロジー、つまりソーシャルメディアのプラットフォーム、ビッグデータ、モバイルテクノロジー、人工知能(AI)であり、経済、政治、社会生活など、あらゆる面で急速に君臨しつつあるデジタル・テクノロジーのことなのだ。
このようなテクノロジーのおかげで、情報量は増え、生活はますます豊かになり、人はさらに幸せになれたのは言うまでもない。なんだかんだ言いながら、テクノロジーは、人類の能力を拡張し、新たな機会を生み出し、生産性を向上させていくものなのだ。とはいえ、民主主義にとってそれは、かならずしもよいものとはいえなかった。
テクノロジーが進歩した結果、拒みようもない恩恵とこれまで以上の個人の自由は得られた。だが、それと引き換えに、政治システムを機能させる根源的な要素の多くが蝕まれていくのを私たちは許してしまった。その要素とは、政府の支配力、議会主権、経済的平等、市民社会、正しい情報を判断できる市民の存在である。
テクノロジー革命はまさに始まったばかりだ。これから説明するように、今後数年のうちにデジタル・テクノロジーはさらに劇的な進化を遂げていくだろう。これまでの進化のペースを踏まえれば、一世代もしくは二世代のうちに、民主主義とテクノロジーの矛盾など、もはや誰も意に介さなくなってしまうのかもしれない。
テクノロジーと民主主義は水と油の関係にある
おかしな話だが、たいていの人が価値を認めると言い張る理念であるはずなのに、民主主義の正しい意味は誰にも共有されていない。民主主義の本当の意味は「天国のどこかにしまいこまれている」と、イギリスの政治理論学者バーナード・クリックはかつて評したことがある。ざっくり言えば、民主主義とは、私たちが自らを支配する原理と、国民に由来する主権を認める一連の制度のことである。民主主義がどう機能しているのかは、厳密には国ごとで異なり、時間とともに変わってきた。ひと言で言うなら、もっとも広範に行われ、支持されている民主主義とは、「現代の自由な間接民主主義」である。これ以降、本書で「民主主義」という言葉が使われている場合、私はこの意味(と成熟した西欧民主主義)を念頭に置いている(これを超えた話になると、テーマはまったく異なってくる)。
こうした民主主義の典型は、選挙で選ばれた国民の代表が、国民の利益に基づいて判断をくだすという形態だ。そして、制度全体を機能させるため、たがいに連動する一連の公共機関が存在する。さらに、定期的に実施される選挙、健全な市民社会、しかるべき個人の権利、きちんと組織化された政党、効率的な官僚制度、自由で注意深いメディアの存在などがこの制度には伴う。
ただ、これだけでは十分とは言えない。民主主義には、この制度に積極的にかかわろうとする国民の存在がどうしても欠かせないのだ。そしてその国民は、分散された権力、権利、妥協、正しい情報に基づく議論など、さらに広い範囲に及ぶ民主主義の理念に信頼を寄せている。現代の安定した民主主義からはいずれも、以上のような特徴がおおむねうかがえる。
本書は、クールなテクノ業界の人間のふりをした、強欲な資本家について書き連ねた不平の物語でもなければ、欲まみれの多国籍企業をめぐる倫理の物語でもない。民主主義は過去何十年にもわたり、彼らを何度も撃退してきた。課税は最小限と言う一方で、国民の権限を高めよと言い張ることは、確かに矛盾しているだろうが、かならずしもそれは国民の不誠実ぶりを示しているとは限らない。
テクノロジーも、一見すれば民主主義には恩寵だ。人間の自主性の領域を拡大し、向上させていることにまちがいはないだろう。社会のなかで、これまで無名だった集団にプラットフォームを授け、知識をプールし、行動をコーディネートする新たな方法を生み出してきた。これらは健全な民主主義社会のもうひとつの面でもある。
しかし、テクノロジーと民主主義──いずれも壮大なシステムではあるが、根っこのレベルではやはり水と油の関係にある。両者はまったく異なる時代の産物で、それぞれ独自のルールと原理に基づいて機能している。民主主義は、国民国家や階級社会が整いつつ、社会への恭順が生まれ、経済が工業化された時代に制度化されてきた。だが、デジタル・テクノロジーの基本的特徴は、地理的な広がりとは無縁で、むしろ分散的であり、データに基づいて駆動し、ネットワーク外部性の影響下に置かれ、指数関数的な成長を遂げる。
はっきり言おう。つまり、民主主義はテクノロジーに合わせて設計はされていない。これは誰の落ち度でもない。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグのせいでもない。
こう考えるのは私一人だけではない。創生期のデジタル・テクノロジーの開拓にかかわってきた多くの者たちもまた、自分たちが〝サイバースペース〟と呼ぶものが物質世界とそぐわないと考えていた。よく引き合いに出されるのが、ジョン・ペリー・バーロウの「サイバースペース独立宣言」(1996年)で、このぎくしゃくとした関係をかなりうまく表現している。
しろしめす民の意を得てこそ、政府はおのが権力を引き出せる。あなた方は、私たちに求めたこともなく、私たちを受け入れたこともない。私たちはあなた方を招いたことはない。あなた方は私たちを知らないし、私たちの世界を知らない。(略)あなた方の法概念、つまり財産、表現、帰属、移動、身分に関する概念は私たちには適用できるものではないのだ。それらの法概念はすべてモノという実体に基づいている。だが、ここには手に触れられる物質は存在していない。
束縛からの自由を唱えたなんとも胸躍る宣言だ。この自由は、デジタル心酔者の心をいまもとらえて放さないインターネットによって授けられた。だが、民主主義がいまも基盤とするのは財産、表現、帰属、移動、身分に加え、手で触れられる物質なのだ。そして、シリコンバレーのテクノロジー企業をひと皮むけば、コネクティビティー、ネットワーク、グローバル化したコミュニティーについて、彼らがどんな信仰を抱いているのかを探ってみることで、反民主主義への衝動がいまも脈々と息づいているのがわかるはずだ。
民主主義を機能させる6つの柱
本書の各章では、民主主義を機能させる、六本の主だった柱について話を進めていくことにする。こうすることで抽象的な理念にとどまらず、人々が信頼を寄せ、支持する共同の自治に関する実際的な制度にも言及できる。六本の柱は次の通りだ。行動的な市民 主体的で警戒を怠らない市民。重要な倫理的判断をくだせる能力がある
文化の共有 一般に認知されている現実、共有されているアイデンティティー、妥協の精神に基づいた民主的な文化
自由選挙 公平で自由、しかも信頼できる選挙制度
利害関係者の平等性 相当数の中流層を含め、自助努力で確保できる平等性
競争経済と市民の自由 競争経済と干渉を受けない市民社会
政府に対する信頼 政府は国民の意思を遂行するが、国民の信頼を裏切ってはならず、国民に対して説明責任がある
以上の柱について各章で検証しよう。そして、六本の柱がなぜ、どのように脅かされているのかを説明していく。場合によっては、テクノロジーの包囲攻撃にすでにさらされている事例もある。また、攻撃はいましばらく先のように見えるが、間もなく本格化するのは必至だという事例もある。
AIとロボット技術が結合したスマートマシンの興隆で、人間の倫理的判断能力が矮小化され、前近代的な部族政治がふたたび姿を現すのだろうか。それとも休息を必要とする人間労働が、超効率的なロボットに置き換えられることで大量失業が生じるのか。
どちらにせよ、民主主義はあらゆる面で脅威にさらされ、すでにおなじみとなった脅威も存在する。見慣れない姿をまとっていても、怒りの政治、失業問題、市民の無関心はとりたてて真新しい問題というわけではない。しかし、まったく見たこともない脅威がこれから現れてくる。
スマートマシンが人間の意思決定に置きかわり、私たちには完全に理解できそうにない手段による政治的選択に変貌する。不可視のアルゴリズムが、目には見えない権力や不正の源泉を新たに生み出していく。世界がますます結びついていくにしたがって、少数の悪党でも大規模なダメージや危害を引き起こすことが容易になるはずだし、時には司直の及ぶ範疇を超えてしまうケースも少なくないだろう。こうした問題にどう対処すればいいのか、私たちにはその手がかりさえない。
このまま進行した場合、状況がどう展開するのか、第6章ではそれを予想した。ファシズムが台頭した1930年代をふたたび目にしたいと望む者はいない。誰もがよくそんな譬え方を口にする。だが、これまでにない、思いもしない形で民主主義は破綻を迎えると私は考えている。迫りつつある恐怖のディストピアは、〝進歩的な〟エリートではあるが独裁的な高級官僚とスマートマシンに牛耳られた薄っぺらな民主主義だ。そして、救いようがないのは、多くの人々がこちらの民主主義のほうを選ぶ点である。おそらく、いまある民主主義より、これまで以上の繁栄と安全を提供できるからなのだろう。
とはいえ、ただちに機械の打ち壊しなど始めるべきではない。ひとつには、民主主義諸国とロシアや中国とのあいだで、現在、テクノロジーの獲得競争が繰り広げられているからである。民主主義国にとっては、この競争に勝利することが先決だ。そして、民主主義のもとでなら、テクノロジー革命は数えきれないほど前向きな形で、社会のあり方を変えることができるのだ。
しかしその場合、テクノロジーと民主主義の双方に、劇的な変化が求められてくる。AIがあまねくゆきわたり、ビッグデータとデジタル化された公共領域の時代を生き抜いていくうえで、民主主義は言うまでもなく、なにより私たち一人ひとりがどのように変わっていかなくてはならないのか。本書の最後で、それに関する20の提言を記した。
テクノロジーは私たちをユートピアに導いてくれる――のか?
ここまでお読みになり、私のことを偽善者に違いないと思われている方がいるかもしれない。たぶん、お前はノートパソコンで原稿を書き、調査のためにグーグルで検索をしているのだろう。ツイートして本の販売を広め、アマゾンで大いに売れることを望んでいるに違いない。そう、まったく仰せの通りだ。私も大勢の人たちと同じように、これから書き進めるテクノロジーを頼みにしているし、気にも入っているが、同時に心の底から嫌悪している。
この10年、私はデモス(Demos)というイギリスでも有数のシンクタンクで働いてきた。テクノロジーと政治の研究では最先端の職場だ。二〇〇八年以降、どうしようもないほど疲弊した政治システムに、デジタル・テクノロジーがどのようにして新しい命の息吹を吹き込むのか、私はそれに関する記事を書いてきた。私が抱いていた当初の楽観主義は年とともに現実主義へ横滑りし、やがて居心地の悪さへと変わっていった。いまでは軽度のパニック状態に陥りつつある。
いまもなお、テクノロジーは政治のよき力となりうるもので、巨大テクノロジー企業の多くも同じ願いを抱えているはずだと信じようとはしている。だが、ウィンストン・チャーチルが語った有名な「民主主義は最悪の政治だ。ただし、これまで試みられたすべての政治体制を除けばだが」というこの制度の将来の見通しをめぐり、はじめて心底から不安を覚えるようになった。
もちろん、テクノロジーの偉大なるパイオニアはそんな不安は持ち合わせていない。テクノロジーが築くまばゆいユートピアを心から信じ、自分たちには、そのユートピアに私たちを導く能力があると信じて疑わないのだ。幸いにも、彼らの何人かとは直接会って話を聞くことができた。また、シリコンバレーに滞在し、この世界の住人とも多くの時間をいっしょに過ごすことができた。私の経験からいうと、邪悪な者など皆無に等しく、ほとんどの者がデジタル・テクノロジーは解放の力となりうると心から信じている。
彼らが築くテクノロジーはどれもすばらしい。だからこそ、ますますテクノロジーを潜在的に危険なものにしてしまう。18世紀のフランスに生きた革命家とまさに同じで、彼らもまた平等という、観念的な原理に基づく世界を構築できると信じていた。現代の夢想家は、コネクティビティーとネットワーク、プラットフォームとデータに決定される社会を絶えず夢想している。ただ、民主主義も現実の世界も、こんなふうには動いてなどいない。
民主主義はもっと緩慢で、検討に次ぐ検討を重ねていくものであり、具体的な物事を土台にしている。デジタルではなくアナログなのだ。それだけに、人々の現実や願望に反する未来像は、いかなるものであれ、思いがけない不幸をもたらす結果になってしまうだろう。
(ジェイミー・バートレット『操られる民主主義: デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか』(草思社)「イントロダクション」を転載)