書評
『倒錯の偶像―世紀末幻想としての女性悪』(パピルス)
とにかく大変な本である。まず、この分厚さは並たいていのものではない。一週間かけて読んでいたら、あまりの重さに、左手が腱(けん)しょう炎(えん)になってしまった。だが、それでも読む価値は十分にある。いや、たとえ読まなくとも、挿入されている世紀末絵画が、どれもあやしい魅力をたたえたものばかりなので、眺めるためにだけでも、手元に置いておくべきだろう。
とはいえ、こうした反応こそは、まさに著者ダイクストラが断罪の対象としているものにちがいない。なぜなら、ダイクストラは、フェミニズムの観点から、女性を描いたこれらの世紀末絵画は、すべての女性蔑視(べっし)(ミソジニー)に貫かれているということを例証しようと躍起になっているのだから、その「けしからぬ」絵を見て、「素晴らしい」などと不謹慎なことを口走ってはいけないのだ。
ダイクストラが拠って立つ考え方は、いたって単純である。十九世紀の半ば、ダーウィンの進化論が発表されると、それをきっかけに、女は、男に比べて進化の遅れた生き物であるという、女性蔑視を正当化する科学・社会思想が次々に生まれた。ロンブローゾの犯罪人類学、マックス・ノルダウの人種退化論、ヴァイニンガーの『性と性格』などである。家庭や職場での女性の進出に脅威を感じていた男たちは、これらの思想に力を得て、女性は獣性の痕跡(こんせき)を止(とど)める劣等人間であることを示唆する絵画を無意識に求めるようになった。
その典型は、神話や旧約聖書に題材を得たという口実のもとに、ヘビや白鳥、犬、ライオンなどと女性との交わりを暗示する獣姦的絵画や、水の中から現れて若者を誘惑するセイレンや女吸血鬼、あるいはヨハネの首を欲しがるサロメなどを描いた、「ほしがる猛女」の系列の絵画である。たしかにこうしたデカダンな絵を眺めていると、ダイクストラのいう女性蔑視の傾向が、世紀末の美術界の大きな潮流であったことは納得できる。しかも、これらの絵画は、一部の好事家の間で鑑賞されていたわけではけっしてなく、官展でグラン・プリを与えられ、画家はアカデミーの会員に選ばれていたのだから、ミソジニー絵画は世間的にも評価が高く、顧客も、女性の裸体が乱舞するこれらの絵画を感心して眺めていたのである。
同じような女性蔑視は、モデルがまるで背骨でも折れたかのような恰好(かっこう)で、頭を後ろにのけぞらせて横たわる「ヴィーナスの誕生」ものの絵画にも観察されるという。
しかしながら、ダイクストラはこうした視線による強姦を呼びかける絵画以外にも、たとえばメアリー・カサットの描く心暖まる母子像にまで、女性蔑視的な思想が貫徹していると大胆に主張する。すなわち、こうした母子像は、「女性は生涯、幼い子供と似ている」というダーウィンの、女性の知的能力にたいする否定的思想に迎合したものだというのである。ダイクストラが槍玉(やりだま)にあげるのは、それだけではない。鏡を見つめる女性、眠る女性、病床にある女性などを描いた絵画、さらには、家庭の中で汚れない聖母の役割を果たす女性の肖像さえもが、すべて女性を嫌悪するミソジニーの系譜に連なるという。それぞれの理由を読むとなるほどとは思うが、しかしそれならば、いったいどんな絵が女性蔑視ではないのだと問いかけたくなってくる。
ダイクストラはおそらく、これにたいしては、あらかじめきっぱりとした答を用意しているに違いない。すなわち、女性の描かれた世紀末絵画には、女性蔑視ではないものはないと。ようするに、ダイクストラは、フェミニズムの観点から世紀末絵画のジェノサイドを狙っているのである。
だが不思議なのは、ダイクストラの穿った分析を読めば読むほど、断罪されている絵画が輝いてくることである。これまで見たこともなかったシュトックやドレイパーのデカダンな絵のすさまじい迫力は否定のしようもない。それは、ちょうどモダニズム絵画の退廃を断罪するナチスの退廃芸術展の効果に似ている。たしかに、女性蔑視なのはよくわかる。だが、……。まさに「寝た子を起こす」である。この本の最大の功績は、案外この点にあるのかもしれない。
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とはいえ、こうした反応こそは、まさに著者ダイクストラが断罪の対象としているものにちがいない。なぜなら、ダイクストラは、フェミニズムの観点から、女性を描いたこれらの世紀末絵画は、すべての女性蔑視(べっし)(ミソジニー)に貫かれているということを例証しようと躍起になっているのだから、その「けしからぬ」絵を見て、「素晴らしい」などと不謹慎なことを口走ってはいけないのだ。
ダイクストラが拠って立つ考え方は、いたって単純である。十九世紀の半ば、ダーウィンの進化論が発表されると、それをきっかけに、女は、男に比べて進化の遅れた生き物であるという、女性蔑視を正当化する科学・社会思想が次々に生まれた。ロンブローゾの犯罪人類学、マックス・ノルダウの人種退化論、ヴァイニンガーの『性と性格』などである。家庭や職場での女性の進出に脅威を感じていた男たちは、これらの思想に力を得て、女性は獣性の痕跡(こんせき)を止(とど)める劣等人間であることを示唆する絵画を無意識に求めるようになった。
その典型は、神話や旧約聖書に題材を得たという口実のもとに、ヘビや白鳥、犬、ライオンなどと女性との交わりを暗示する獣姦的絵画や、水の中から現れて若者を誘惑するセイレンや女吸血鬼、あるいはヨハネの首を欲しがるサロメなどを描いた、「ほしがる猛女」の系列の絵画である。たしかにこうしたデカダンな絵を眺めていると、ダイクストラのいう女性蔑視の傾向が、世紀末の美術界の大きな潮流であったことは納得できる。しかも、これらの絵画は、一部の好事家の間で鑑賞されていたわけではけっしてなく、官展でグラン・プリを与えられ、画家はアカデミーの会員に選ばれていたのだから、ミソジニー絵画は世間的にも評価が高く、顧客も、女性の裸体が乱舞するこれらの絵画を感心して眺めていたのである。
同じような女性蔑視は、モデルがまるで背骨でも折れたかのような恰好(かっこう)で、頭を後ろにのけぞらせて横たわる「ヴィーナスの誕生」ものの絵画にも観察されるという。
明らかな恍惚(こうこつ)の表情をまとい、手足を無様に投げ出したニンフの自由のきかない姿勢は、こうして、この女性たちがいわば「強姦されることを求めて」いると鑑賞者に向かって暗示するように描かれているのである。
しかしながら、ダイクストラはこうした視線による強姦を呼びかける絵画以外にも、たとえばメアリー・カサットの描く心暖まる母子像にまで、女性蔑視的な思想が貫徹していると大胆に主張する。すなわち、こうした母子像は、「女性は生涯、幼い子供と似ている」というダーウィンの、女性の知的能力にたいする否定的思想に迎合したものだというのである。ダイクストラが槍玉(やりだま)にあげるのは、それだけではない。鏡を見つめる女性、眠る女性、病床にある女性などを描いた絵画、さらには、家庭の中で汚れない聖母の役割を果たす女性の肖像さえもが、すべて女性を嫌悪するミソジニーの系譜に連なるという。それぞれの理由を読むとなるほどとは思うが、しかしそれならば、いったいどんな絵が女性蔑視ではないのだと問いかけたくなってくる。
ダイクストラはおそらく、これにたいしては、あらかじめきっぱりとした答を用意しているに違いない。すなわち、女性の描かれた世紀末絵画には、女性蔑視ではないものはないと。ようするに、ダイクストラは、フェミニズムの観点から世紀末絵画のジェノサイドを狙っているのである。
だが不思議なのは、ダイクストラの穿った分析を読めば読むほど、断罪されている絵画が輝いてくることである。これまで見たこともなかったシュトックやドレイパーのデカダンな絵のすさまじい迫力は否定のしようもない。それは、ちょうどモダニズム絵画の退廃を断罪するナチスの退廃芸術展の効果に似ている。たしかに、女性蔑視なのはよくわかる。だが、……。まさに「寝た子を起こす」である。この本の最大の功績は、案外この点にあるのかもしれない。
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図書新聞 1994年7月16日
週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。
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