自著解説

『リオ・デ・ジャネイロ国立図書館蔵 日葡辞書』(八木書店)

  • 2020/08/14
リオ・デ・ジャネイロ国立図書館蔵 日葡辞書 /
リオ・デ・ジャネイロ国立図書館蔵 日葡辞書
  • 編集:エリザ・タシロ,白井 純
  • 出版社:八木書店
  • 装丁:単行本(848ページ)
  • 発売日:2020-04-03
  • ISBN-10:4840622345
  • ISBN-13:978-4840622349
内容紹介:
2018年、中南米大陸ブラジルで初めて発見された日本のキリシタン版辞書を、高精細・原寸カラー版で初公開!400年前の日本・ポルトガルの言語を知る最重要資料。
400年前の戦国時代の日本語を知る最重要資料『日葡辞書』。2018年、中南米大陸ブラジルで初めて発見された日本のキリシタン版辞書を、高精細・原寸カラー版で初公開。現地ブラジルでの調査に基づく詳細な解説とともにお届けします。

希少なキリシタン版の辞書

キリシタン版は、16世紀後半から17世紀初頭にかけて日本で宣教活動を行ったイエズス会がヨーロッパから持ち込んだ金属活字印刷機によって出版した現存30余点の文献である。『日葡辞書』(1603-04年長崎刊)はイエズス会の日本語学習の成果を象徴する辞書で、32,000語に及ぶ日本語見出し語にポルトガル語で注釈を付し、当時の日本語や日本文化だけでなく、ポルトガル語の資料としても特筆すべき価値をもつ。

日本でのキリシタン弾圧によりキリシタン版の殆どは滅び、現存する本には稀覯書が少なくないが、オックスフォード大学ボードレー図書館、パリ国立図書館、エボラ公共図書館に次ぐ現存4冊目(写真版だけが残る上智大学キリシタン文庫蔵のマニラ本を含めれば5冊目)として、この度、在リオデジャネイロのブラジル国立図書館(Biblioteca Nacional do Brasil)所蔵のリオ本が、中南米で発見された初めてのキリシタン版として新たに加わった。

思いがけない発見

リオ本は2018年9月に、白井とサンパウロ大学のエリザ博士の合同調査中に発見された。白井は当時、サンパウロ大学大学院での講義のためサンパウロに滞在中で、エリザ博士に誘われて図書館の調査に勤しんでおり、サンパウロ市立図書館にキリシタン版『羅葡日辞書』があるという怪情報により勇んで出かけたところ複製本が貴重書だったとか、やたらと暑い日にアマゾン上流域の都市マナウスの図書館で門前払いを食らうとかは、珍しい話でもなかった。「日本語、もしくはイエズス会の本はありますか」「……?」がファースト・コンタクトなのだから無理もないのだが、そのことはあまり気にかけず、ピッカーニャ(赤身肉のステーキ)を食べ、カイピリーニャ(サトウキビから作ったカシャーサ酒のカクテル)を飲み、そういう気楽な雰囲気がブラジルらしく文献探しに飽きることがなかった。

リオデジャネイロでも、午前中は治安の悪そうなセントロ地区の王立ポルトガル図書館(ガイドブックでは「幻想図書館」)に行ったが期待した内容の本はなかった。現地ではよくあるビュッフェ形式のレストランで昼食にしたが、そこで何かに当たったらしく、当日夜から絶食することになる。午後のブラジル国立図書館はそんな調子で疲れ始めており、20世紀から既に何人かの研究者が調査した後でもあるし、貴重書室で一通りカタログを見ればいいや、というゆるい雰囲気だった。案の定、そういう本は知らないといわれたが、館内端末を使って調べても良いという。そこでキリシタン版に関連した語を打ち込んでみたところ、“lingoa”(言語)という検索語で1603年刊の“Vocabulario”(辞書)が挙がってきた。書誌情報が極端に少ないが“JAPAN”とあり(なぜかここだけ英語)、『日葡辞書』らしかった。さっそく閲覧希望を出したが、複製本が出てくるのではないかという疑念は拭えない。しかし、司書さんが持つ本のかたちを見てどうやら本物らしいと感じ、ぞくぞくしながら数丁めくってみて確信した。新たな日葡辞書の発見の瞬間である。至福の時間であった。

なぜ『日葡辞書』がブラジルにあるのか

ところで、日本で出版された『日葡辞書』がなぜブラジルにあるのだろうか。その理由は、ブラジルの歴史にある。

ブラジルはポルトガルを宗主国とする旧植民地で、スペイン語圏の中南米で唯一、ポルトガル語を公用語とする。ナポレオン戦争によってリスボンを追われたポルトガル語王室が植民地のリオデジャネイロに遷都したが、その際、王室ゆかりの品々や人々がブラジルに渡り、王立図書館の蔵書もそれに含まれていた。『日葡辞書』がそのコレクションに含まれていても不自然ではないが、それを示す蔵書印がリオ本にはみられない。十数年後に王室はリスボンに帰還したが、王族のペドロ1世が摂政としてブラジルに残り、1822年に独立を宣言したのがブラジル帝政の始まりである。

その後、皇帝となった息子のペドロ2世は文化と芸術を愛する名君で、ナポリ出身のテレザ・クリスティーナ・マリアを妻とした。政治的な結婚であり、ペドロ2世は初めて見た妻の容姿に失望したという。しかし彼女は聡明な女性であり、ペドロ2世も次第に受け入れていった。ペドロ2世はヨーロッパ方面で文化財の買い付けを行っており、『日葡辞書』が含まれていたかもしれない。そんな二人の幸せな生活をしのぶ王室の離宮が、リオデジャネイロ郊外の高原の街ペトロポリスで皇帝博物館として公開されているが、いたるところに二人の写真や肖像画が飾られており、それは「お手洗いはこちら」の看板にも及んでいる。ペドロ2世はブラジルの近代化に尽力した(しかし十分には果たせなかった)人物としてブラジル国民に愛されており、ペトロポリスの雑貨屋の名前が「ドン・ペドロ・セグンド」なのも、それを象徴するのだろう。

しかし、そうした生活も1889年の軍部クーデターによって終わり、二人はリスボンに追放される。心身に大きな痛手を負い、テレザ・クリスティーナは渡航後まもなく病死、ペドロ2世もリスボンを離れ、亡命先のパリで亡くなっている。リオデジャネイロのポルトガル王室ゆかりの図書はそのままブラジル共和国に売却されたが、ペドロ2世はコレクションに妻の名前を残すことにこだわった。「彼女の名が、もっとも繊細かつ安全な方法で」残ることを希望したという。

リオ本複製を刊行する意義

リオ本の文献学上の特徴は、允許状と出版許可状、補遺を欠く点でパリ本に一致するが、パリ本で異植字版となるTt折(165-168丁)はその他の本に一致している。複製本の刊行のため改めて5本を対照したが、本文はおおむねパリ本を除く諸本に一致していて独自の本文をもたず、補遺を欠くリオ本は『日葡辞書』を代表する本ではない。したがって複製本を価値あるものとするため、ブラジル国立図書館と八木書店の協力による最新技術を用いた高精細カラー複製に拘る一方、複数の著者による多言語の解説を充実させることとした。中野博士による5本対照校異、エリザ博士による王室コレクションの分散収蔵の追跡、マルケス博士によるブラジル国立図書館の歴史と『日葡辞書』の関係、岸本博士によるポルトガル語辞書史における『日葡辞書』の価値、白井による『日葡辞書』の概要とリオ本の書誌紹介であり、すべて英語訳を付し、ポルトガル原著解説には日本語も付した。

『日葡辞書』が日本語学研究の重要資料であることは言うまでもないが、日本語の資料としてだけでなく、ポルトガル語の資料として、また、ポルトガル語が連なるヨーロッパの辞書の一角を占める辞書としての意義を持つ。本書を手にとり、高精細なカラー複製画像とともに充実した解説を読むことで、『日葡辞書』がもつ様々な言語学的価値だけでなく、一冊の辞書が象徴するブラジルの激動の歴史を感じることもできるだろう。

[書き手]白井純(しらいじゅん)
広島大学大学院人間社会科学研究科准教授。中世日本語史、キリシタン版。
〔主な著書・論文〕
『ひですの経』(共編、八木書店、2011年)
『リオ・デ・ジャネイロ国立図書館蔵 日葡辞書』(共編、八木書店、2020年)
「キリシタン版の刊行と日本語学習」(福島金治編『学芸と文化 生活と文化の歴史学9』竹林舎、2016年)
「キリシタン語学全般」(豊島正之編『キリシタンと出版』八木書店、2013年)
リオ・デ・ジャネイロ国立図書館蔵 日葡辞書 /
リオ・デ・ジャネイロ国立図書館蔵 日葡辞書
  • 編集:エリザ・タシロ,白井 純
  • 出版社:八木書店
  • 装丁:単行本(848ページ)
  • 発売日:2020-04-03
  • ISBN-10:4840622345
  • ISBN-13:978-4840622349
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2018年、中南米大陸ブラジルで初めて発見された日本のキリシタン版辞書を、高精細・原寸カラー版で初公開!400年前の日本・ポルトガルの言語を知る最重要資料。

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