書評
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)
想像と現実の境目で戸惑い続ける
見知らぬ異国の言葉を日本語に直訳したようなタイトルから、どんな壮大な物語が始まるのかと構えて読み始めたら、意外にもリアリズムに根ざした読みやすい小説だった。「読みやすさ」とは「わかりやすさ」では決してない。初めて入ったレストランで名物料理を食べ終えた帰り道に「ところで、この舌に残るぶつぶつとした物体はなんだろう。食材か?もしくは調味料か?」という風に。鉄道の駅舎の設計管理をする仕事に就く多崎つくるが主人公。彼が旧友の女性に投げかけられる言葉がある。
「駅がなければ、電車はそこに停まれないんだから。そして大事な人を迎えることもできないんだから」
この言葉になぞらえるなら、本作を評するために「村上春樹初のミステリー小説」という駅、すなわちプラットホームをこしらえてみたい。
ミステリーに謎はつきものだ。
一つ目の謎は、多崎つくるが学生時代の仲良し五人組から、ある日突然ひとり切り離された理由。友人は「自分に聞いてみろよ」と突き放す。そのせいで多崎つくるは死ぬことばかり考える生活を半年近く続け、絆を断たれた傷を抱えながら三十六歳を迎えていた。
彼自身は過去を忘れたつもりでいたが、現在の恋人で二歳上の木元沙羅から、謎を解き明かすように促され、順番にかつての友達に会いにいく「巡礼」の旅に出る。
二つ目の謎は、友人のうちの一人が亡くなっていた理由。それも殺人事件の被害者として。ここで俄然ミステリー色が強くなるのだが、いわゆるミステリー小説の謎解きは成されない。強いて言えば多崎つくるの見る夢が謎を解く糸口になるかもしれない。彼は殺された女性ともうひとりの友人女性との性夢をくり返し見る。
夢は睡眠中に見る幻想で、願望だったりもする。すなわち夢は自分の深層に存在するある種のユートピア(あるいはディストピア)と言い換えられる。いかにも抽象的なその夢の意味は謎のまま。多崎つくるは夢と想像の境目で、想像とリアリティの境目で戸惑い続けるのだ。
多崎つくるだけでなく、はっきりとした答えを示されないことで読者を戸惑わせる。いつしか小説という夢と現実の境目にわたしたちは多崎つくると同様に立ち尽くしている。
多崎つくるが新宿駅のベンチに座って乗るあてのない列車を眺める場面は最も印象的だった。彼は旅人を乗せた列車を見送るうちに、ふいにその列車に乗りたい衝動に駆られる。 彼はその時、自分には向かうべき場所もなく、帰るべき場所もないことを悟る。そしてたまたま与えられた東京という場所で静かな生活を送り木元沙羅を手に入れたい、と強く願う。これは寄る辺ない世界で生きる人間の、実にシンプルな願望ではなかろうか。多崎つくるは長年友人を失ったトラウマから立ち直れず、恋人を失いたくないと怯える心に目を背けてきたが、ようやく現実に対面するのだ。
冒頭で本作を食材やら調味料と例えてみたが、村上作品には数多くの比喩がちりばめられている。そのせいか、作品を語るうえでこちらも比喩を用いてしまう。これは村上作品のマジックというか、吸引力のひとつだと思う。つまり比喩は、小説から世界を覗くフィルターのようなものだ。わたしたちの脳内にあるカメラは、登場人物たちの何気ない振る舞いや習慣を想像する際にフィルターをかける。ほとんど色を感じさせない、だけど絶妙な色合いのフィルター(比喩)を通すと、画は際立ってドラマティックになる。途中に登場する悪霊や悪いこびとたちもフィルター越しに存在し、小説の風景に自然と収まっている。
リアリズムに根ざしたミステリー小説のはずが、いつのまにか幻想小説かのように説いている。心地よく変化する小説。読者それぞれの胸のうちにこしらえられるプラットホームから、本作を眺めてほしい。
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