前書き

『[図説]老いと健康の文化史:西洋式養生訓のあゆみ』(原書房)

  • 2021/10/20
[図説]老いと健康の文化史:西洋式養生訓のあゆみ / リナ・ノエフ
[図説]老いと健康の文化史:西洋式養生訓のあゆみ
  • 著者:リナ・ノエフ
  • 翻訳:森 望
  • 出版社:原書房
  • 装丁:単行本(240ページ)
  • 発売日:2021-09-09
  • ISBN-10:4562059443
  • ISBN-13:978-4562059447
内容紹介:
人は老いにどのように向き合ってきたのか、健康の維持にどう努めてきたのか。古代から現代に至るまで多彩な図版とともに概観。
人は、迫り来る老いにどのように向き合ってきたのか。また、いかにして健康の維持に努めてきたのか。古代ギリシャ・ローマ時代から現代のアンチ・エイジングに至るまで多数のカラー図版とともに紹介した書籍『老いと健康の文化史』より、訳者まえがきを特別公開します。

日本には『養生訓』。ではヨーロッパは?

私たち日本人は、いわゆる「蘭学」というものを知っている。医学の世界の人間でなくても、誰もが『解体新書』(1774)のことを知っているだろう。江戸時代中期に、長崎の出島を通して入ってきたオランダからの書物が、豊前国中津藩の前野良沢と若狭国小浜藩の杉田玄白によって、簡略版ながら日本語に訳されて出版された人体の解剖学書である。これをもって、西洋医学のエッセンスが初めて日本に知れ渡ったとされている。
この『解体新書』の受容をもって、私たちは当時の日本人、あるいは江戸の庶民が、オランダの医学を知ったように思い込みがちなのだが、実はその『解体新書』にあるのは人体各部の臓器や骨格の名称とその相互関係くらいであって、当時のオランダの医療の状況については一切ふれられていない。しかも、元はといえば、ドイツの医学者ヨハン・クルムスの出版物をオランダのライデンにいた外科職人(外科医)のへラルトス・ディクテンがオランダ語に翻訳したもので、オリジナルではない。したがって、私たちは『解体新書』からは当時のオランダの医学については何も学べていないのである。
一方で、私たちは江戸時代の『養生訓』(1712)のこともよく知っている。当時の日本人、あるいは江戸の庶民の生き様に対して、こうすれば健康になるというある種の指南書だった。
その中には、食べ過ぎはいけない、いわゆる「腹八分」の概念もあるのを聞いたことはあるだろう。筑前国福岡藩の儒学者だった貝原益軒によるものだ。いかにも健康長寿への心構えについて実践的に庶民にわかりやすく説かれている。こちらは東洋医学に基礎をおく健康への考え方のお手本となるものである。
だが、すでに出島へ出入りしていたオランダ人、あるいはヨーロッパ人の当時の健康への考え方については『養生訓』からは何もわからない。それに類するオランダの書物、オランダの養生書には何があったのか、それはほとんど知られていない。当時のオランダやヨーロッパの人々がどういう健康観をもっていたか、あるいはどういう医療が施されていたのか、さらには当時の医学を先導していたオランダの医学者は誰だったのか、ほとんど何も知らないのである。

ヨーロッパの庶民の健康法

本書は、フローニンゲン大学の博物館で2017年から2018年にかけて開催された企画展、Gelukkig Gezond! Histories of Healthy Ageingに合わせて、同大学の医学史教授であるリナ・ノエフが中心になって編集した一般向けの解説書の全訳である。原文はオランダ語だが、英語が併記されているので、翻訳にあたってはほぼ全体を英語から訳出し、キーワードのみオランダ語を参照した。
この企画展は「健康長寿」についての考え方の歴史的変遷を、オランダ、フローニンゲンに重きをおきながらも、古代ギリシャやローマ時代からのヨーロッパ全体の学問的な動向とまた民衆の健康についての考え方の時代変遷を俯瞰した展覧会だった。
昨今、日本でもアンチエイジング・ブームも含めて健康長寿への関心は高い。それは貝原益軒の養生訓にもつながる健康観である。
上述のように、私たち日本人は西洋医学の知識を江戸時代のオランダ医学から学んだと思い込みがちだが、実際にはそのオランダ医学たるものを何も知らなかった。本書には当時のオランダの人たちが健康をどう考えていたか、健康長寿へ向けて何に心がけていたか、それを指導したオランダの有力な医学者は誰だったのか、それも含めて、欧州全体の健康医学の歴史を辿り見ることができる。まさに当時のオランダ医学の実態とあわせて、西洋の養生訓がここにある。
全体の章構成は以下の通り。まず、序章では本書の意図が手短にとりまとめられている。導入はオランダ北部のフリースラント地方で、日本でいえば幕末から明治の時代を生きた百寿者、ヘアート・ブームハールトの話から始まる。北方の厳しい気候の土地でも110歳まで生きた強者で、当時は歴史上の最高齢者だった。
西洋における健康観は、もとはといえばギリシャ・ローマ時代の医聖といわれるヒポクラテスの教えである。当時の医療は養生を中心としたもので、健康を決める要素として6つの「ノンナチュラリア」というものを重視した。ここではまずその6つの要素を列挙しているが、その6つが、とりもなおさず、序章に続く各章の内容になる。そこでは、西洋古来からのヒポクラテスの健康思想のひとつひとつの要素について、その後のほぼ2000年の歴史変遷を概観しながら、意外にもその思想が、私たちの現代の生活の中にも浸透している、そんなことを気づかせてもくれる。
第1章は「気・水・地」、要は生活環境、住まう土地の風土について。
第2章は「食べ物と飲み物」。
第3章は「運動と休息」。
第4章は「眠りと目覚め」。
第5章は「保持と排泄」。
そして、第6章は「情緒バランス」となっている。
日本ではよく、「衣食足って礼節を知る」という。きちんとした生活の基盤はここにあるのだが、それは第2章と第4章で議論される。生活基盤は「衣食住」ともいうが、その「住」に相当するのが第1章の議論である。
健康には運動がつきものであることは論をまたない。それについての議論は第3章にある。歴史上最古の運動競技は、無論、古代オリンピアなのだが、興味深いことにヨーロッパ中世の騎士道にもその運動の要素があったことを気づかせてくれる。それが次第に庶民の中ではゲームの要素を帯びるようになって、それがついには近代オリンピックの新しい競技へと進展していった。
健康には身体と心の両面が必要だが、その心についての議論は、本書の最後、第6章にある。情緒バランスだが、人の心の奥底にある情動というものから解きほぐし、最近の関心事でもあるうつ病なども古い時代からあったことなども見えてくる。
このように、まずは衣食住、そして身体と心、これが健康を考える5つの要素であるのはよくわかる。それに加えて、第5章には「保持と排泄」とある。これは飲食もからむのだが、それだけでなく母乳のこと、射精のことなども深く考察している。水分の出入りも大事で、それには尿や血液が関係してくる。この中では特に17?18世紀のオランダの医学で盛んに行われた「瀉血」についての話も興味深い。
このように、西洋における養生についての考えを、その元となる各要素について歴史的に俯瞰しながら、現代の私たちの健康観へのつながりを見直させてくれる。ヨーロッパの歴史上、庶民への健康指南書、いわゆる養生書としてベストセラーになったのは何だったかとか、人間の老いについての学術書、つまり老年学を意識した最初の書物は何だったのか、そういうことにも思い至る。

本書の内容は以上のようなことなのだが、もうひとつ重要なのは、掲載されている古典的資料の面白さもある。たくさんの歴史的な絵画や書物を含め、一見して歴史的重要度の高いものや興味深いものが多い。これら資料を概観するだけでも西洋の健康意識の時代の流れを感じ取ることは十分にできる。全体を眺めながら、興味を引かれた図版のところからかいつまんで読んでみるのも面白いかもしれない。
本書の原題は"Gelukkig Gezond!"。直訳すれば、「健康長寿!」となるが、ここには健やかな老いを考える上で重要な歴史的なヒントがたくさん散りばめられている。
健康長寿を追い求める上では、老化の科学的研究の最先端の知見も無論大事だが、長い歴史の中で人々が老いをどう考えてきたのか、与えられた環境の中で生活をどう工夫して、何を大切にして生きてきたのか、学べることも多い。
科学の新発見を知れば、それはワクワクする。その一方で、歴史を大きく俯瞰して考えてみると、なぜか不思議な安心感というか、安寧の心が芽生えてくる。科学も大事だが、歴史もまた大事だ。健康長寿やアンチエイジングに類する本が乱立する中にあって、本書はユニークな視点でそのことに気づかせてくれる貴重な一冊である。

[書き手]森望(訳者)
福岡国際医療福祉大学教授。長崎大学名誉教授。東京大学薬学部卒。薬学博士。米国南カリフォルニア大学老年学研究所助教授、国立長寿医療研究センター部長、長崎大学教授(医学部・第一解剖)等を歴任。専門は脳科学、神経老年学。著書に『寿命遺伝子』(講談社ブルーバックス)、翻訳書に『オランダ絵画にみる解剖学』(東京大学出版会)など。
[図説]老いと健康の文化史:西洋式養生訓のあゆみ / リナ・ノエフ
[図説]老いと健康の文化史:西洋式養生訓のあゆみ
  • 著者:リナ・ノエフ
  • 翻訳:森 望
  • 出版社:原書房
  • 装丁:単行本(240ページ)
  • 発売日:2021-09-09
  • ISBN-10:4562059443
  • ISBN-13:978-4562059447
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人は老いにどのように向き合ってきたのか、健康の維持にどう努めてきたのか。古代から現代に至るまで多彩な図版とともに概観。

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