本文抜粋

『この自由な世界と私たちの帰る場所』(青土社)

  • 2023/07/20
この自由な世界と私たちの帰る場所 / 河野真太郎
この自由な世界と私たちの帰る場所
  • 著者:河野真太郎
  • 出版社:青土社
  • 装丁:単行本(208ページ)
  • 発売日:2023-07-11
  • ISBN-10:4791775627
  • ISBN-13:978-4791775620
内容紹介:
感情の取り締まり(ポリシング)、トランス排除、宗教右派からポストトゥルースまで。透徹した思考に貫かれた論考群。
ポストフェミニズムをめぐる状況にたいして積極的に発信をつづけている著者による、待望の新刊『この自由な世界と私たちの帰る場所』。本書では、著者の研究主題である「新自由主義」と並んで、「場所」の問題を扱っています。私たちはいま、どのような「場所」に属しているのか? それを考えるための発端となる文章を、本書の序文から一部抜粋してご紹介いたします。

「どこか族」と「どこでも族」

本書『この自由な世界と私たちの帰る場所』のタイトルは、「この自由な世界」と「私たちの帰る場所」という二つの部分で構成されている(ご覧の通り、それらはそのまま部のタイトルにもなっている)。

ここまでの議論で、前半の「この自由な世界」が何のことを言っているのかは、大まかに理解いただけたのではないかと考えている。これは、ケン・ローチ監督の『この自由な世界で』(2007年、原題Itʼs a Free World...)のタイトルと同様、多分にアイロニーを込めたものである。アイロニーは込めているのだが、同時に「自由」への希求という真剣な願望もまた、そこには込められている。

そして、この序文を私の出自から語り起こしたのは、まず、一九七四年という生年が新自由主義の始まりとほぼ重なっているからであったが、山口出身であり、そこからの移住者であることについて、つまり「場所」の問題――タイトルの後半の「私たちの帰る場所」――については、もう少し述べておく必要があるだろう。

ここまで概観した現在において、「場所」にはどのような意味があるだろうか。まずは、近代のメリトクラシー(新自由主義もそれを引き継いでいる)と「移住者の物語」がからみ合っていることは、示唆した通りである。その物語はいまだに有効なのだろうか。部分的にはそうだろう。だが、現在においてはそれが無効化している部分もあるのかもしれない。イギリスの著述家デイヴィッド・グッドハートの『どこかへの道――イギリス政治をかたちづくる新たな部族たち』(2017年、原題The Road to Somewhere: The New Tribes Shaping British Politics)は、現在において「場所」が持つ意味を理解するためのヒントを与えてくれる。『どこかへの道』は2016年のEU残留/離脱を問う国民投票の結果(離脱)を受けて書かれたものであり、ベストセラーとなった。

ベストセラーが必ずそうであるように、『どこかへの道』は非常に簡潔に現代のイギリス政治の本質を――そしておそらくイギリスだけではなく、世界的に共有されている本質を――射貫いてみせた。グッドハートによれば、ブレグジットが背景とするのは、「どこでも族(Anywheres)」と「どこか族(Somewheres)」の対立である。「どこでも族」とはつまり、どこに行こうが生きていける人びとである。グローバリゼーションに適応し、どこでも働いて生きていけるスキルを身につけ、リベラルな価値観を持つ、グローバルな中産階級――それが、「どこでも族」である。それに対し、グローバリゼーションが進む中で、ある場所――基本的には自分の生まれた場所――でしか生きられず、したがってその場所の、良く言えばコミュニティを大切にし、悪く言えば排外的になってしまうような人びとが、「どこか族」である。

ブレグジットであれば、EUへの残留とそこからの離脱は、この「どこでも族」と「どこか族」の対立として姿を現した。離脱キャンペーンを推進したナイジェル・ファラージやボリス・ジョンソンのような政治家たちは、イギリス労働者階級の苦境を移民労働者のせいにし、ポピュリズム的な排外感情をそのキャンペーンに利用した。その観点では、EU残留派はグローバリゼーションの手先としてのEUを肯定する輩であり、イギリス国内のコミュニティを裏切ってグローバリゼーションから利を得うるし、実際に得ている人びと、つまり「どこでも族」なのである。

私は、この対立を実地で体験した。国民投票のあった2016年、私は本書の後半で論じるイギリスのウェールズに、スウォンジー大学のリチャード・バートン・センター・フェローとして滞在していた。私の暮らしたスウォンジーという町は、かつては製銅業で栄えていた。南ウェールズで産出される石炭と銅を活用し、銅製品をグローバルに輸出していた。

そのようなスウォンジー出身の有名詩人、ディラン・トマスは、スウォンジーのことを「醜い、美しい町」と呼んでいる。スウォンジーは長いビーチに面した風光明媚な町だが(そのビーチも、かつては製銅業のためにひどく汚染されていたそうなのだが)、ディラン・トマスの生家の彼の部屋は、一面の窓はそのビーチに向いており、もう一面の窓は町の東側の工業地帯を望んでいる。「醜い、美しい町」というのはそのようなスウォンジーの二面性を表現しているのだ(というのは、生家の案内人の受け売りであるが)。

実際、現在においてもスウォンジーは二つの顔を持っている。ひとつの顔は東部の工業地帯(いまや製銅業は存在しないが、自動車修理工場などが集まる労働者階級地域)であり、もうひとつの顔は西部の風光明媚な地域である。後者はミドルクラスの住む地域であり、私が家を借りたのもこの地域だった。

ちなみにその東部地域は、ポスト工業の現在においては、一方では再開発の波にもまれつつ、もう一方ではアマゾンの倉庫やコールセンターといった、いかにもポスト工業的な産業地域となりつつある。じつはこの地域は、ジェームズ・ブラッドワースのルポ『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』(濱野大道訳、光文社、2019年)に登場する。このルポルタージュでブラッドワースは、現代のさまざまな過酷なギグワークを体験し報告しているが、第三章ではスウォンジーのおそらく東部の再開発地域にあるコールセンターで働くのである。

さて、そのようなスウォンジー西部のミドルクラス地域に住み、大学に通った私は、EU離脱派に出会うことがほぼなかった。唯一の例外は離脱キャンペーンのチラシを私の家の郵便受けに投げ込んだ男性と偶然に目が合った時だった。それ以外に、大学や近所で親しく話す人たちの中に離脱派は存在しなかった。であるから、情勢が変化していって、投票の結果が「離脱」となったことは大きな驚きだった。

そのスウォンジーであるが、投票の結果はまさに、上記の二面性をそのまま表現するものだった。スウォンジーの選挙区はスウォンジー・イーストとスウォンジー・ウェストに分かれているが、スウォンジー・イーストは、62%とウェールズ全体でももっとも離脱の投票が多い地域となったのだ。それに対してスウォンジー・ウェストは40%台前半であった。これは、グッドハートの言う「どこでも族」と「どこか族」の分断がスウォンジーという地方都市の内部でみごとな表現を得た事例だろう。ミドルクラスでリベラルでEU残留派の西部住民と、労働者階級で排外主義に走り、EU離脱を望んだ東部住民。ショックであったのは、ウェールズの労働者階級の伝統の中にある自由主義が、そこでは影を潜めてしまったことである。

この対立はイギリスに限ったものではないだろう。ブレグジットの衝撃の直後に訪れたのは、トランプ・ショックであった。バラク・オバマという有色人種で教養が高くリベラルな価値観を持った大統領の後に、史上初の女性大統領になる可能性が濃厚であったヒラリー・クリントンを打ち負かしたのは、性差別や排外主義を隠しもしないドナルド・トランプだった。そして、トランプを支持したのは、ラスト・ベルトと呼ばれる、不況にあえぐアメリカの元工業地帯の白人労働者たちだった。あとは同じ物語である。

そのような現状がグローバルに、つまり日本でも共有されているとすれば、現状の問題は「場所」の問題でもあるのだ。私は近代的な移住者の物語、つまりメリトクラシー的な階級と場所の移動の物語が無効になりつつあるかもしれないと述べたが、グッドハートの言う「どこでも族」と「どこか族」の分断と固定が真実であるなら、まさにそのような「移動」の物語は無効化した、というよりはグローバリゼーションの中での「勝ち組」=「どこでも族」に占有された物語になりつつあるのかもしれない。その一方で、場所と階級に縛りつけられた「どこか族」からは、そのような近代の物語が奪われている。

だが、「どこでも族」と「どこか族」の危険なほどに分かりやすい対立図式は、溝を深めるためではなく、対立を解きほぐして解除するための図式でなければならない。そのためには、逆説的だが、「どこでも族」と「どこか族」の対立は突き詰めれば幻想的なものであると理解せねばならないだろう。グローバル化する世界の中で、グローバル・ミドルクラスの仲間入りをしてどこでも生きていける力を身につけようとひたすらに努力するわけでもなく、かといってそのようなものへの反動で偏狭なナショナリズムや排外主義やミソジニーに陥るわけでもない、「間」の道が目指される必要がある。そのためには、近代においては、私たちはみな多かれ少なかれ故郷喪失者(エグザイル)なのだという認識が、最終的には重要になるだろう。本書の後半「私たちの帰る場所」に通底するのは、そのような問題意識である。


[書き手]河野 真太郎(こうの・しんたろう)

1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化ならびに新自由主義の文化と社会。主な著書に『戦う姫、働く少女』(堀之内出版、2017年)、『新しい声を聞くぼくたち』(講談社、2022年)などがある。
この自由な世界と私たちの帰る場所 / 河野真太郎
この自由な世界と私たちの帰る場所
  • 著者:河野真太郎
  • 出版社:青土社
  • 装丁:単行本(208ページ)
  • 発売日:2023-07-11
  • ISBN-10:4791775627
  • ISBN-13:978-4791775620
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