プロランニングコーチ 金哲彦氏 本書解説特別公開!
本書は、自然とランニングをこよなく愛する、私より少し年上のイギリス人ジャーナリスト リチャード・アスクウィズ氏によって書かれた長編ノンフィクションである。トレイルランニング(著者はフェルランニングと呼んでいる)に親しむ落ち着いた序章からはじまり、やがてマスターズ陸上で活躍する世界中の高齢者アスリートの生きざまと記録へのチャレンジの核心に迫った多種多様な輝きのストーリーが、栗木さつきさんの翻訳でさらに輝きを増した文章となり引き込まれていく。
また、文章のいたるところに散りばめられた綿密な取材による科学的エビデンスに裏付けされたトレーニング理論も、初心者からオリンピッククラスの現役アスリートにまで役立つ知識が満載である。
さらに、高齢者に限らずすべてのランナーに必要な正しいランニングフォームの知識や体の使いかたのノウハウ、故障のメカニズムと予防法などの情報も得ることができるだろう。
「ランニング」に加え、もう一つ本書の重要なテーマは私たちにとってシリアスかつ深刻な「老い」である。
その「老い」についても第3章「パークランにしたしむ人たち」では、「けっこうな年寄りが走ると、死んでしまうんじゃないかと、心配する連中がいる。だがね、私くらいの年齢になると、朝から晩まで、いつ死んでもおかしくないんだよ。それなら、走ったっていいじゃないか」と一蹴され、そのときの会話が目に浮かび心が和んだ。
そして、次のような古典的見識から引用し「老い」を掘り下げるのもアスクウィズ氏の特徴だ。
「ドイツの心理学者・哲学者カール・グルースの言葉としてよく引用される「歳をとるから遊ばなくなるのではなく、遊ばなくなるから歳をとるのだ」という考え方を、彼女は見事に体現している」
「西洋医学の父ヒポクラテスの二五〇〇年前の言葉を引用するのを好む。いわく、「使えば発達し、使わなければ衰弱する」」
第4章「分かれ道」では運動を取り入れるライフスタイルが明らかに老化を遅らせる(スローエイジング)ことが科学的根拠を含めて提示され、ゴールドゾーン(アスリート的な運動習慣)、グリーンゾーン(運動習慣がある)、レッドゾーン(運動習慣がない)で区分けされた3つのライフスタイルの違いを単純明快に示してくれる。
また、本書は新型コロナウィルス禍のパンデミック下で世界中のランニング大会が中止になったとき、海外のシニアランナーたちがどんな状況になり行動したかについても具体例をあげて教えてくれる。たとえば、ボストン・マラソンを女性として初めて走り、女性ランナーの地位向上の先駆けとなったレジェンド、キャサリン・スウィッツァー夫妻がロックダウンのなか気分転換のため走ろうと外に出たとき、近所の親切な人から「外に出ちゃいけません。もう八〇歳なんですから」といわれたエピソードには思わず笑った。
私は元競技者ではあるが本書に登場するような世界記録にチャレンジするスーパーシニアアスリート(たとえば弓削田眞理子さんなど)ではない。しかし、還暦サブスリーを目指してハードトレーニングにチャレンジした経験者として「そうだよな〜」と頷ける多くの共感と、もっと早く読んでいれば少しでも失敗を防げたかもしれないと思えるような示唆と教訓に学ばせてもらった。
日本のランニング界ではお馴染みだが、高齢になってからランニングをはじめ年代別でいくつかの世界記録をもつレジェンドランナー中野陽子さんのエピソードも世界の読者向けに詳しく紹介されているのも嬉しい。走ることは「感謝」「冒険」「発見」という高齢になって開花したランナーから発せられるキーワードは珠玉だ。
第18章「一〇〇〇〇m走に挑戦する」では著者自身がいよいよマスターズ陸上にチャレンジすることになる。六〇歳を過ぎて真剣勝負で感じた次のような言葉は私たちランナーの心に響く。
「年齢や能力の差も露呈してきた。しかし、それは私たちを結びつけるものを強調したにすぎない。私たちはランナーであり、いま、走っている。自分には限界があることを隠さずに、勇猛果敢な表情を浮かべている。それこそが、このスポーツの美点のひとつだ。自分がむきだしになり、偽ることも、隠すこともできない。ただ、ありのままの自分になり、ベストを尽くす。そして、それを認識すると—–どの人生のどの分野においても—–気持ちが平穏になり、強くなれる」
高齢者たちがマスターズ陸上に情熱を傾ける理由は、誰にでも訪れる死を前にして残り少なくなった人生を少しでも輝かせるためなのだ。そのために必要なのは「闘争心」。
それは、競技で他人と競い合う闘争心でもあるが、老いた自分と向き合う「闘争心」でもある。
第24章「限界に達する」は若者と高齢者の比較からニーチェ哲学まで広い裾野の知識が引用されストーリーが展開される。たとえば、
「哲学は死の練習であると、ソクラテスが言ったのは有名な話だが、ランニングにも似ているところがあると思う。ランニングは、人間として避けられない衰えにどう対応するかをシミュレーションするのに適している。歳をとるにつれて、身体が徐々に言うことを聞かなくなるのを痛感するからだ」
など哲学的観点からランニングと人生の共通点が紐解かれ、心の奥底に深く刺さる必読の章である。
本書を最後まで読み終えて、じわじわと込み上げてくるものを感じた。
還暦を過ぎこれからは老化していくだけと諦めるのではなく、次は何にチャレンジしてみようかとワクワクする自分もいることに気づかせてくれた。
[書き手]
金 哲彦(きん・てつひこ)
1964 年福岡県北九州市生まれ。早大時代、箱恨駅伝では山上りの五区で活躍、卒業後はリ
クルートに入社。選手、コーチ、監督を歴任し、オリンピック選手などの一流選手を育成。
2002 年にNPO のクラブチーム「ニッポンランナーズ」を創設。現在は、NHK BS「ランス
マ倶楽部」にレギュラー出演、プロコーチ、解説者としても活躍、著書多数。