後書き
『ランニング王国を生きる 文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと』(青土社)
本書は、二〇二〇年一一月にイギリスで刊行された『Out of Thin Air: Running Wisdom and Magic from Above the Clouds in Ethiopia』の全訳である。イギリス人の人類学者で、フルマラソンを二時間二〇分で走る本格的なランナーでもある著者が、世界トップクラスの長距離走者を次々と輩出するランニング王国エチオピアに一年三カ月にわたって滞在し、ランナーたちに密着しながらこの国の知られざるランニング文化に肉薄するという内容だ。
著者のマイケル・クローリーは、エチオピアのランナーたちを単に客観的に観察したのではない。人類学で「参与観察」と呼ばれるフィールドワークの手法に則り、観察対象であるエチオピアのエリートランナー集団の日常に入り込み、一人のランナーとして一緒に練習し(時にはレースにも出場し)、生活を共にしながら、世界最強と称されるこの国のランナーたちの強さの秘密に迫っていくのである。
その体験は、まさに驚きの連続であった。著者が行動を共にしたランニングクラブのメンバーたちは、標高三〇〇〇メートルもの高地で練習を厭わず(酸素が薄くすぐに意識が朦朧としてしまう)、森の中では木々の間を縫うようにジグザグに走り、「コロコンチ」と呼ばれるでこぼこの未舗装路をひたすら走って足腰を鍛える。
エチオピアやケニアをはじめとする東アフリカのランナーの強さは、「生まれついての才能に恵まれているから」、「子供の頃から山道を走って学校に通っていたから」、「貧しさから抜け出そうとするハングリー精神があるから」、「高地でひたすら猛練習をしているから」といった紋切り型のイメージで解釈されがちだ。しかし著者はこうしたステレオタイプなものの見方が表面的なものにすぎないことを明らかにしていく。実際には、エチオピアのランナーたちは「才能」というものの存在を信じておらず「練習をすれば誰もが神に与えられた能力を発揮できる」と考えているし、走って学校に通っている子供もほとんどいない。家が貧しすぎると用具代や交通費がなくランニングクラブの練習に参加できないという現実があり、ある程度の経済力がなければランニングには打ち込めない(国家が支援するランニングクラブによって生活を保障されたランナーたちは、先進国より恵まれた環境の中で練習に打ち込んでいるとも言える)。また、選手たちはやみくもに猛練習をしているわけでもない。ハードに走ることより「賢く走る」ことが重視され、たとえばアスファルトでの練習は足を消耗させるという理由でめったに行われなかったりもする。
エチオピアでは、星の数ほどのランナーたちが、海外のレースで活躍すれば、〝人生が変わる〟ほどの賞金を手にできるという状況の中で、わずかな可能性を求めて野山やトラックを駆け巡っている。彼らは走ることを社会的な活動だと見なしている。隊列を組み、前のランナーの「足を追いかけ」ながら、一糸乱れぬほどの正確さでフォームをシンクロさせながら走る。先頭を走ることは集団のために自分を犠牲にすることであり、後ろを走ることは先行するランナーからエネルギーをもらうことだと考えられている。また、「誰と走るか」と同じくらい重要なのが「どこを走るか」だ。標高が高く空気が薄い場所になればなるほど自然の力を体に漲らせることができると信じられていたり、森の中の道なき道を縦横無尽に方向やスピードを変えて走ることでランニングが面白く刺激的なものになると考えられていたりする。またランナーたちは、著者の目からは時に魔術的だと思われるような思考を用いて、走ることに自分なりの意味づけをしている。
エチオピアのランナーたちが大切にしているのは、自然との共生であり、仲間との絆であり、自分を信じることであり、夢に向かってチャレンジすることである。本書には、現代のランニング文化が忘れかけている何かを思い出すためのヒントが満ちている。読み進めながら、すぐにも走り出したいという衝動に駆られた人も多いのではないだろうか。
本書を訳し終えた今、個人的に確信していることがある。それは、これからマラソンレースをテレビ観戦するとき、エチオピアのランナーを見る目が大きく変わるに違いないということだ。これまでは無個性に見えていたかもしれないこの国のランナーたちに、本書に登場する個性的なランナーたちの姿を重ね合わせ、きっと心の中で熱いエールを送るようになるだろう。エチオピアという魅力的な国のことも大好きになった(いつもは一人でランニングをしているが、機会があれば前を走るランナーの足の動きに合わせて走ってみたいとも思うようになった)。同じ感想を抱いた読者の方も多いのではないだろうか。
本書が読者の皆様にとって価値ある一冊になることを、心から願っている。
[書き手]児島修(翻訳者)
著者のマイケル・クローリーは、エチオピアのランナーたちを単に客観的に観察したのではない。人類学で「参与観察」と呼ばれるフィールドワークの手法に則り、観察対象であるエチオピアのエリートランナー集団の日常に入り込み、一人のランナーとして一緒に練習し(時にはレースにも出場し)、生活を共にしながら、世界最強と称されるこの国のランナーたちの強さの秘密に迫っていくのである。
その体験は、まさに驚きの連続であった。著者が行動を共にしたランニングクラブのメンバーたちは、標高三〇〇〇メートルもの高地で練習を厭わず(酸素が薄くすぐに意識が朦朧としてしまう)、森の中では木々の間を縫うようにジグザグに走り、「コロコンチ」と呼ばれるでこぼこの未舗装路をひたすら走って足腰を鍛える。
エチオピアやケニアをはじめとする東アフリカのランナーの強さは、「生まれついての才能に恵まれているから」、「子供の頃から山道を走って学校に通っていたから」、「貧しさから抜け出そうとするハングリー精神があるから」、「高地でひたすら猛練習をしているから」といった紋切り型のイメージで解釈されがちだ。しかし著者はこうしたステレオタイプなものの見方が表面的なものにすぎないことを明らかにしていく。実際には、エチオピアのランナーたちは「才能」というものの存在を信じておらず「練習をすれば誰もが神に与えられた能力を発揮できる」と考えているし、走って学校に通っている子供もほとんどいない。家が貧しすぎると用具代や交通費がなくランニングクラブの練習に参加できないという現実があり、ある程度の経済力がなければランニングには打ち込めない(国家が支援するランニングクラブによって生活を保障されたランナーたちは、先進国より恵まれた環境の中で練習に打ち込んでいるとも言える)。また、選手たちはやみくもに猛練習をしているわけでもない。ハードに走ることより「賢く走る」ことが重視され、たとえばアスファルトでの練習は足を消耗させるという理由でめったに行われなかったりもする。
エチオピアでは、星の数ほどのランナーたちが、海外のレースで活躍すれば、〝人生が変わる〟ほどの賞金を手にできるという状況の中で、わずかな可能性を求めて野山やトラックを駆け巡っている。彼らは走ることを社会的な活動だと見なしている。隊列を組み、前のランナーの「足を追いかけ」ながら、一糸乱れぬほどの正確さでフォームをシンクロさせながら走る。先頭を走ることは集団のために自分を犠牲にすることであり、後ろを走ることは先行するランナーからエネルギーをもらうことだと考えられている。また、「誰と走るか」と同じくらい重要なのが「どこを走るか」だ。標高が高く空気が薄い場所になればなるほど自然の力を体に漲らせることができると信じられていたり、森の中の道なき道を縦横無尽に方向やスピードを変えて走ることでランニングが面白く刺激的なものになると考えられていたりする。またランナーたちは、著者の目からは時に魔術的だと思われるような思考を用いて、走ることに自分なりの意味づけをしている。
エチオピアのランナーたちが大切にしているのは、自然との共生であり、仲間との絆であり、自分を信じることであり、夢に向かってチャレンジすることである。本書には、現代のランニング文化が忘れかけている何かを思い出すためのヒントが満ちている。読み進めながら、すぐにも走り出したいという衝動に駆られた人も多いのではないだろうか。
本書を訳し終えた今、個人的に確信していることがある。それは、これからマラソンレースをテレビ観戦するとき、エチオピアのランナーを見る目が大きく変わるに違いないということだ。これまでは無個性に見えていたかもしれないこの国のランナーたちに、本書に登場する個性的なランナーたちの姿を重ね合わせ、きっと心の中で熱いエールを送るようになるだろう。エチオピアという魅力的な国のことも大好きになった(いつもは一人でランニングをしているが、機会があれば前を走るランナーの足の動きに合わせて走ってみたいとも思うようになった)。同じ感想を抱いた読者の方も多いのではないだろうか。
本書が読者の皆様にとって価値ある一冊になることを、心から願っている。
[書き手]児島修(翻訳者)
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