喜びや楽しさ、葛藤や苦しみが入り混じるその実践を客観的にまなざしながら、主観的に寄り添いながら描き出した田中東子さんの単著『オタク文化とフェミニズム』。本書の刊行を記念して「はじめに」を公開いたします。
オタク文化とフェミニズムのあいだに佇む
本書のタイトルを『オタク文化とフェミニズム』と付けたのには、二つの理由がある。一つめの理由は、「オタク文化」という言葉がこれまで無意識のうちに「男性オタクの文化」として流通してきたことへの静かな異議申し立てである。「オタク論」とされるものはこれまで、ジェンダー的には無徴で中立的な言葉であるかのようにふるまいながら、主に男性オタクのための論であった。
読み進めてもらうと分かるように、本書は主に「女性オタクの文化」について書かれたものである。十年くらい前に本書を刊行していたなら、タイトルには遠慮がちに「女の」という文言を入れざるをえなかったことだろう。だが、この度は、特に断りを入れることなく堂々と「オタク文化」を名乗らせてもらおうと思う。
二つめの理由は、「オタク文化」と「フェミニズム」の相性の「良さ」と「悪さ」を、タイトルとして同時に示したかったからである。本書の第1章でも論じているように、いまでは経済活動のメインストリームに躍り出ているようにも感じられるオタク文化であるが、そもそもは、メインストリームの文化になじめない人たちの嗜好や趣味を共有する人たちが閉じられたコミュニティの中で語り合うためのサブカルチャーとして存在していた。特に女オタクにとっては、規範的な女性性から逃れるある種の逃走線としてオタク文化は大切な空間であった。
しかし、いまやオタクとその活動は、経済と消費の中心に迫(せ)り出しているし、その大半が異性愛主義の下で展開されていることから、女性による男性性の過度な消費という問題を引き起こしている。規範的な女性性からの逃避の先が、過剰なまでの男性性の消費、ということであるとすれば、それは脱出した先がユートピアの反転したディストピアであるということにもなりかねない。
したがって、本書では逃走線として機能するオタク文化と、ディストピアへの囲い込みとしてのオタク文化という両面価値的な側面を行き来しながら論を展開している。オタク文化は、つねにすでに両義的なものなのだ。
さらに、本書は全体を通して、現象そのものを実証することを目的とはしていない。それよりもむしろ、重要な問題、困難な状況が浮かび上がっていることを批判的に捉え、指し示すことが重要であると考えている。したがって、取り上げている現象にかかわる新聞記事や雑誌記事、論文、最近ではSNSでの投稿などを集め、スクリーンショットを保存して目を通しつつも、その数をカウントしたり、キーワードの数や関係性をコーディングしてまとめたり、というような手法は用いていない。
そういう意味で、本書は実証主義的な研究に基づく書籍ではない。しかし、返す刀で本書の内容が批評であるかと尋ねられたら、それもまた違うと答えざるをえないだろう。本書には幾人もの理論家や思想家、学者や評論家の言葉や概念や分析枠組みを引用し、現象に当てはめて考察をしている部分もあるが、コンテンツや作品の批評を行っているわけでもないからだ。社会現象を批評的に分解することを試みてはいるものの、批評のための理論を精緻化することを目的として分析を行っているわけではないのである。
ではどういう本なの?と説明を求められたら、首をひねりながら「あるオタクの研究者が、研究を目的としないままオタ活のフィールドに出て目にしたものを記述した記録のようなもの」と答えるのが適しているような気がする。つまり、「研究者」という超越的な主体がオタク文化をフェミニズムの視点から分析し、記述したのではなく、たまたま研究者の職にあるオタク女性が地面の上に立って身の回りの出来事を分析し、記述したら、たまさかそれが社会を批判的に捉えることになり、フェミニズムが問題としてきた事柄にあてはまってしまったのである。そういう意味で、本書は主観的に感情や感覚を交えて書かれているわけではないけれども、極めて一人称的な本であることは間違いないだろう。
天空から構えて論を振りかざすのではなく、地上から見上げて叫んでいる。
そんな本なのである。
[書き手]田中東子(たなか とうこ)